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加納明弘と高橋公

2010. . 31
 暑い夏の日が続く。この間、かつての全共闘活動家による本が、2冊続けて出版された。
 「団塊の世代」が、酒場などでよく語っている、嘘八百の話ではない。この2人は本物の全共闘活動家であった。だいたいこの団塊の世代を「全共闘世代」などという馬鹿がいるがとんでもない話で、当時の大学進学率が15%前後、そして大学にあって何らかの形でセクト、ノンセクトを問わず活動に関わったものはずっと少なくて、運動のさかんな大学であってもその10%位、ふつうは5%以下だっただろう。この辺がいわば60年安保闘争の「全学連」とのちがいで、良くも悪くも「全共闘」の限界でもあったのである。前にも書いたが、69年、9・5の全国全共闘結成集会で全国から日比谷野音に集まった2万5千人というのを目安として団塊の世代の人数と対比して考えてみればよくわかる。間違っても全共闘の活動家は世代を代表してなどはいない。ゆえに、普通に大学を卒業し、普通に就職し、酒場で昔の「活動」の話などしている連中のほとんどはどうしようもない「嘘つき」ということになる。そんなに沢山活動家がいたはずもないし、また、いつまで活動を続けたかを別にしても、そんなに表立って云える話ばかりではなかったはずだからである。
 本当に「闘った」人間はとにかくずっと「語りたがらなかった」のだ。彼らが還暦を過ぎ、また現在の世界や日本の情況を考え、思うところがあったのだろうか、やっと「語り始めた」という意味で、この2冊の本は実に貴重である。
 
 一昨年だったか、「遠くまで行くんだ・・・」が復刊されたが、この2人はそのリーダーであった小野田襄二の影響下にあった活動家である。加納氏は三派全学連、中核派で活動し、離れ、ノンセクトで東大全共闘、駒場共闘で闘い、大学は中退する。本書は、最近の「百年に一度の危機」という時代にあい、また本人に癌が発見され、ご子息との対話というかたちで彼の活動家としての経験、思想を語ったものである。高橋氏は当初は民青だったようだが、はじめからノンセクトの活動家として早大全共闘、反戦連合の中心にいた。その後、大学は中退、後に自治労、連合で労働運動に関わってゆく。著作ではそこでの様々な出会い、思いも語られている。
 勿論僕はまったく2人を直接知らないが、高校時代から、「遠くまで行くんだ・・・」を読み、かなり感激したほうなのでこの人たちの無党派、全共闘運動へのこだわりはよくわかる気がする。 2人とも権力、当局とはもとより、セクトとも相当タフに闘ったようだ。ことに高橋氏のほうはあの革マル派の拠点・早稲田にあってノンセクトの部隊を組織したのだから大変だった。本には権力との闘いというより、革マル派との闘い、同派から受けたテロ、リンチのことが怒りを込めて何度も取り上げられる。学内の運動を、あるいは学生の思想を、テロ、リンチを駆使した暴力で統制しようとするセクトの「革命運動」などナチスと変わらない。こうした集団が小権力でも握ったらそれこそファシズム、スターリニズム同様のとんでもない恐怖政治が敷かれるわけだ。
 本の中で加納氏が語っている通り、全共闘運動は当初三派全学連のセクトが作りあげた。だがそれ以外の学生も結集するようになり、マルクス主義とも別の、広がりを持った思想を持つようになった。ここで加納氏自身は所属していた組織を離れ、ノンセクトの活動家として駒場共闘のリーダーとなったようだ。このあたりも70年代になると考えにくい展開である。組織を離れたものがノンセクトとして同じ学内で活動するのを組織が絶対に許さないだろうからである。当時はまだ党派のほうも多少おおらかだったのと、全共闘運動がセクトを圧倒するそれなりのパワーをもっていたこと、あるいは加納氏個人が相当タフだったこと、それらが重なっていたのだろう。この加納氏はその名のままで「遠くまで行くんだ・・・」に文章を寄せているので僕は名前だけは知っていた。彼は46年生まれ、新左翼運動の中では、世代的に三派世代のほうにはいるようだ。
 それに対して、高橋氏は47年生まれ、セクトも三派もなくはじめから全共闘である。本での語り口がこの1年の差、三派と全共闘の差になっているように僕には感じられ、興味深かった。

 先般、小熊英二「1968」で語られたとおり、彼らの叛乱、闘いの思想は、これらの本を読んでも既製の「システム」への異議申し立て、「現代的不幸」への叛乱であった。思想としては、身びいきのようだが最高のものだった。だが、これも「1968」にあった通り、最後まで、50年代に形成されたセクトの、古いマルクス主義のパラダイムにとらわれた言葉でしか自らを語ることが出来なかった。「遠くまで行くんだ・・・」はそこからのいわば「脱出」の試みだったのだろう。

 それにしても、加納明弘、高橋公、ともに読んでなんとさわやかなことだろう。例えば同じ世代の政治家が団塊といわれるだけあって自民党にも民主党にもそれこそごろごろといるわけだが、人生経験、政治経験の重みはもちろんのこと、思想の水準、知性、教養、この2人とはまったく「レベルが違う」ように思う。加納氏は歴史認識、世界認識を本の中で語っているが、賛否はあるだろうが考え抜かれた結果であり、高い水準である。
 今、僕たちはやはり同世代の菅とゾンビーのような小沢との不毛な対立を見せ付けられ、これも同じ世代の鳩山が軽井沢の別荘から都内から、2人の間をちょろちょろと動き、「調整」しているのまで見せ付けられている。高橋氏のほうは菅も鳩山も知っているようだが、さぞ情けない思いだろう。それにつけても、連日メディアに登場するこの「団塊の世代」の政治家たちの無内容、破廉恥ぶりはどうか。
 同世代の人間であって、この圧倒的な人間的力の差はどこから来るのか。それは、これら薄汚い政治家たちと違い、加納氏も高橋氏も人生にあって金や権力にずっと恬淡としているからである。だから本を読んでさわやかに感じるのである。 


 僕はこういう「本当に闘った」人たちにそろそろ重い口を開いてもっと体験を語って欲しいと思う。(高橋氏は85年に「プロジェクト猪」で「全共闘白書」をまとめた。)とにかく団塊の世代は人数が多くて、このままではくだらない政治家や企業人に語られるままである。団塊の世代など所詮そんなものかと後の世代は思うだろう。少数ではあっても本物の思想に触れた人々の話しが聴けなければ寂しいではないか。

 







  
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a3iproducer
加納くんの出版記念会に行ってきました。司会進行役は前田和男氏。会場に平積みされたポスト出版の『民主党政権の伏流』を買って読みました。
本書は、インタヴュー構成ですが、その綿密な内容に驚きました。
記念会はさながら東大全共闘の同窓会の感がありました。ちなみに小生は高校の同級で東大には縁が全くありませんでした。でも参加者は誰一人嫌みな人物はおらず、実にさわやかな風が流れていたのです。きっととことん戦い抜いたことを自負する人の集まりだったからでしょう。
2010.11.12 16:53

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