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シンポジウム「60年安保闘争の記録と記憶」―6.15安田講堂

2010. . 16
 50年目の6.15、何かしたくて考えていたところに、このシンポジウムの情報があったので申し込んで入場券がわりの返信メールをもらった。「声なき声の会」の集会、南通用門での献花というのとどちらに行くか迷っていたがこちらにした。

 安田講堂は満杯であった。
 司会の女子アナに呼ばれて壇上に上がったコーディネーターの上野千鶴子が「この安田講堂の定員1,000人を上回る参加」と発表した。上野の冒頭の発言。60年安保闘争は、「失敗に終わった」とはいえ戦後最大の大衆運動であった。そこで問われた日米安保条約は、例えば普天間基地の問題で一つの政権が倒れるくらいの、今日まで続く重要な意味を持っている。この60年安保闘争の「何を」記録し、記憶するのか、また「いかに」記録し記憶するのか、パネラーたちとともに考えていきたい。
 本日は云うまでも無く、樺美智子さんの50周忌である。仏教では50周忌で「忘れよう」ということになっているが、私たちは「忘れず」、記憶を新たにし、この記念日に彼女の出身校である東大の安田講堂で、このシンポジウムを開こうと、思い入れを持ってこのシンポジウムを企画した。
 これら、上野の発言とリードで会は始まった。
 
 そして、映画“ANPO”の製作・監督にあたったリンダ・ホーグランドは、この夏公開されるこの映画を、6月15日に、安田講堂で「封切り」をしたかったというやはり思い入れがあったそうだ。彼女の発言に続けて、映画“ANPO”のダイジェスト上映がある。
 日本で育った彼女は黒澤明や宮崎駿の英語字幕を作る仕事をしていたそうだ。数々の日本映画の名作に接する中で、日本には60年安保闘争という「トラウマ」があるようだと気がついた。濱谷浩の写真集、中村宏の絵画作品などに触れ、60年安保闘争にあった日本人の希望、明るさ、そして敗北後の怒りや悲しみ、そうしたものに打たれ、また現在まで続く日米関係の基本がこの時築かれたことを思い、この映画を作ったと語った。
 映画は、主に安保闘争に参加したアーティストたちへのインタビュー、当時のフィルムを混ぜ、現在の基地の街も訪ねたりしてドキュメント風に仕上がっている。中村宏、朝倉摂、加藤登紀子ほか色々な写真家、映像作家などが出てくる。それぞれがそれぞれの思いで現在の、あるいは過去の「安保」について語る。本編も見たいと思った。

 映画のあと、「60年安保闘争の真実」を書いた人、これが私の「ネタ本」です、という上野の紹介で保阪正康の発言。60年安保闘争時20歳。初めて聴いたが、「ブントのシンパだった」そうだ。「日帝自立論」について散々議論した末のことだったというからリアリティがある。共産党は対米従属論だったはずだから。6.15当日は京都では普通3,000~6,000人のデモが、女子大生や高校生まで含めて4万人集まっていたそうだ。普段は学生デモに批判的なタクシー運転手たちまでが応援してくれていたのを良く覚えているそうだ。時々は東京のデモにも動員されて参加していたそうだ。そんなときは、東京では国家権力が目の前にある気がして、東京までの電車(新幹線は無いから朝から夜までだ)の間中なかなか興奮したそうだ。どうも関西の新左翼が過激化するのはこの辺に理由があるのではないかという。全国的な大きな運動の盛り上がりと幅広い支持、この理由はよく語られることだが、彼もまた、太平洋戦争の戦犯(当時の商工大臣で開戦の閣議決定に署名している)岸が暴力的な議会運営をし、再び日本を戦争への道に引きずりこんでいくことへの強い反感が全国民的にあったと指摘した。安保条約そのものについては知らない人が多かったそうだが、ただ吉田茂の時代の(改定前の)安保条約は日満条約と酷似していてこれは屈辱的だと彼自身は思っていたそうだ。いずれにせよ、戦後民主主義(アメリカンデモクラシー)の教育を受け始め、先の戦争への嫌悪感を持っていた自分たちに、岸は恐ろしく「不潔感」があったという。

 続けて、完全に「レイト・カマー」(上野の言)である小熊英二の発言。彼は「〈民主〉と〈愛国〉」で敗戦から安保闘争時の日本人の姿を描いている。彼もまた「戦争を繰り返さない」あるいは「民主主義を守る」というテーマで60年安保闘争が盛り上がった前提で、何故それが(その理由だけで?)あれほどの動員になったのか、国民的広がりをもったのかについて分析して発言した。
 とにかく敗戦からまだ15年しか経っていないこと、これは現在から考えれば1995年、オウム真理教事件、阪神大震災の年に当たるのだが、今の20代の学生に聴いてみると、20代初めだとほとんど覚えていない、かろうじて「知っている」ことになるそうで、つまり、60年に戦争(第2次大戦)というのは記憶と記録(歴史)のぎりぎりのところだったことになる。で、その戦争が何故嫌なのか。いうまでもなく第一に死と恐怖である。沖縄で4人に1人、(本島では3人に1人)内地では人口の4%、25人に1人が亡くなっている。家族、親戚、知人の誰かが確実に死んでいるのだ。そして1,500万人が家を失っている。5人に1人だ。さらに敗戦翌年1946年には物価が16倍になっている。これは資産・所得が16分の1になったのと同じ意味である。第二にこれらを含めた不幸が実は平等には降りかかってこないということに人々は気がついていたこと。軍隊で階級が下の人間ほど多く死ぬように、軍隊化した大衆も下級ほど被害が大きかったのだ。例えば小熊は「疎開」の例を挙げたが、疎開先での物資の分け方も教師を筆頭に、班長から下部へという風に、あるいは「おべっかを使う奴」を優先にされたという。こうした大衆のなかで「いじめ」もあれば、物資不足のなか「盗み」もある。「お嬢さん学校」といわれた私立女子高で弁当の盗難まであったそうだ。密告も多かった。ちょっとでも子供の出征に反撥のような態度があっただけで密告されたという。「敗戦」が「終戦」と言い換えられたことのなかには、こうした暗い、嫌な時代が終り開放感があったことも示していた。
 この、やっと嫌な時代から解放されたところに、保守勢力が復権し、あの戦争を主導した高級官僚であった岸が戻ってきた。そして5月19日強行採決というかたちで「民主主義」を踏み潰した。また暗い時代へ、嫌な時代に日本を引き戻そうとしているのだ。これに対する反撥、怒りが共通の国民感情だったろう。安保闘争時、百貨店のOLが集まって疎開の時代の思い出を話し合い、「もうあんな時代は嫌だよね」だけで意思一致してデモに出かけたという。「共通の記憶」である。
 
 そして、この「安保」は当然現在の我々を規定している。国民的に昂揚した安保闘争の結果として、本土の米軍基地は4分の1になったが、一方沖縄の基地は2倍に増えている。「安保の棘」として沖縄に象徴されている現実の日米関係から目を背けることは許されることではない。
 ちなみに小熊はそのあとの発言でも沖縄の米軍基地に触れる。

 さて、次の段階では上野の質問に3人が答える。短い時間だが、リンダ・ホークランドは「何故、アーティストに集中したのか」の質問に対して「それが私の原点だから」と答え、「今後も国家が誤っている時はアメリカだろうと日本だろうと個人が団結してそれを正す闘いをする」と言って拍手を受けた。保阪正康は「何故、(著書のインタビュー中存命だった)岸を含む政府側の人間にインタビューをとらなかったのか」という問いに、さすがに岸は嫌だったしたぶん本当のことは云わないだろうと思った、と答え、さらに3人の政府側の人間へのインタビューについて語った。当時自治大臣だった後藤田正晴は安保闘争に接して「これは大変なことになる、この学生たちに就職先を用意しなければ」と思ったそうだ。伊藤昌哉は「このエネルギーを経済へむけなければ」と下村治とともに語り合っていたそうだ。保阪氏はどうも日本の支配階級は磐石だと、余裕があると思ったと語った。小熊英二は突然「1968」で当事者インタビューを採らなかったことに触れられ、他の著書でもとっていないのに、どうも団塊の世代は妙なことに拘りますといって、ただ当事者インタビューというのはどうしても「いいこと」しか云わない、「嫌なこと」については大事でも云わないことが多い、例えば、戦争で仲間が死んだとは云っても、仲間を捨てて逃げたとはなかなか語られないという、当事者インタビューの限界について語り、上野をかわしていた。

 最後に、ゲストの加藤登紀子が登場、60年安保時、高校生だった彼女は国会突入こそしなかったもののデモに行き、帰ってから樺さんがなくなったのをニュースで知ったという。
 「お登紀さん」のは話というよりはかなりノーテンキなアジテーションに近く、「時間制限なんてまったくもう、ちょっと前にはここは学生が占拠してたのよ・・・」「60年安保や68年の闘いを失敗とか敗北とか言われたけれど、私たちは負けていない、歴史に勝ち負けなんか無い、まだまだ闘う・・・」と色々語った。まあなかなか良かった。
彼女による樺さんの詩「ブリュメール」の一節の朗読、そして彼女の号令で全員による樺さんへの長い黙祷。


 こうして8:30ぴったりに会は終了。上野「本日私たちは8時30分まで安田講堂を占拠いたしました。(笑)」


 
 僕は自分なりに今年の6.15に意味を見出している。会で語られたように、普天間問題で鳩山が迷走し、(上野は「パンドラの箱を開けた」と表現した。)菅は「日米合意に基いて」と語り、沖縄問題という「安保の棘」はそのままだ。
 このシンポジウムのような安保闘争総括を、あるいはここで語られたような内容を、例えばすが秀実ならば「リベラル・デモクラシー」と呼び、「市民主義」と批判するだろう。それは68年当時散々と批判され、乗り越えられたのではなかったかと。上野や鶴見俊輔はそう批判されてきた。正直言って、昔の僕なら、やはりそうした視点でこのような会自体ネガティヴに捉えただろう。
 だが、先日長崎浩の発言を引いたが、また参加した人間の多くが今も語っているように、何と言っても60年安保闘争は「戦後民主主義」の運動として闘われ、その最左翼としてブントが学生指導部として存在したのである。まさに始まったばかりの「市民主義」、リベラル・デモクラシーそのものである。だからこそ「革命」であり、時の政権を倒したのである。これは当時のブント同盟員がイデオロギー的に「戦後民主主義」でなく「共産主義」や「革命」を信じて闘っていたとしてもである。また、「市民主義」という批判は、それでも68年当時のように新左翼運動が健在だったときには、そちらの方に期待が持てたわけだからまだまだ説得力があった。だが結局、その対置された新左翼運動が「自分の党派以外は敵」という論理に染まって自滅していったあとになっては、批判されていた「市民主義」、リベラル・デモクラシーのほうに歩があったことにならざるを得ない。

 冒頭に書いたが「声なき声の会」は予定通り、南通用門での献花を行った。それに先立つ集会ではその「市民主義者」鶴見俊輔のメッセージが読み上げられたそうである。

 このシンポジウムも、「声なき声の会」の集会も見ようによっては空しく無意味に見えることだろう。だが、「安保の棘」沖縄の怒りがいっそう高まっている現在の、この日、6.15記念日に、東京ではここにしか、このような形でしか「安保闘争」が存在していないようであった。いつかも書いたが、口先だけ「左から」他人を批判するのは簡単である。だが国家との闘いはいつも困難である。








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