スポンサーサイト

--. . --
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

1968年と2009年

2009. . 04

 ヨーロッパ出張前の最後の週末、金曜日の夜、大先輩のお姉さまと日本橋で楽しく飲み、土曜日は人形町にてイタリアンをビュッフェでお腹一杯食べ、神保町の古書まつりへ出かけた。

 懐かしい本をみつけて買い求め、また、すずらん通りには各出版社が新本も特価で出しており、藤原書店のエマニュエル・トッドをなんと千円で買うことが出来た。

 馴染みのコーヒー店に入って、のんびりした週末気分を満喫した。エマニュエル・トッドの読後文は今度読み終えたらゆっくり書いてみたい。だいたい、僕はこの人がポール・ニザンの孫だということを知ってから、何だか書いたものを読みたくなった。「アデン・アラビア」や「アントワーヌ・ブロワイエ」のポール・ニザン、60年代後半に読書好きだったら、誰でも必ず一度は読んでいるだろう。ニザンは永遠の青春である。

 

 で、日曜日、明治学院大学へ、小熊英二「1968」をめぐる、「1968年と2009年」と題されたシンポジウムに行ってきた。当初、「『1968』のスタンドポイント」ということで、出席できなかった小熊英二本人の話がテープで流された。この約40分ほどはレジュメもあり、本を読んだものには興味の持てる内容だった。

 著者はまず「1968年と2009年」を国内的視点と国際的視点に分けた。国内的視点としては、「戦後」を1945年から高度成長期に至る「第1の戦後」、冷戦の崩壊と冷戦に依存していたその高度成長が終わるまでの、実際は1992年までとされた「第2の戦後」、そしてそれに続く現在までの第3の戦後とさらに分け、各時代のメルクマールを論じ、国際的視点として、発展途上国におけるナショナリズムと民主主義、民主化運動と独立運動の並立を論じ、急速な近代化と共同体の崩壊、格差の増大などの中で起きる普遍的問題として、「1968」を照射してみせた。そして、「第2の戦後」が相対化されてゆくなかでの新しい「現代的不幸」の問題化が1968年に現れて以来、2009年をむかえていまだ変わっていないという基本的視点を提起した。さすがに「大著」をものにしただけあって、個々の議論には細部で異議もあるが、骨太な拝聴すべき内容であった。これを聴けただけで、来た価値はあったと思った。

 ところが、その後がまったくいただけなかった。期待はずれとはこのことだ。司会の原武史はただ流すだけ、パネリストのうち、まず最年長の加藤典洋からして薄っぺらで無内容、著作から離れて我田引水、「1968」が「1Q68」だとかどうのこうの、中学生の感想文みたいなことしかしゃべれない。あれで大学の教授が務まるのが不思議だが、あるいはよほどこのシンポジウムをなめていたのか。高橋源一郎は世代的にも「当事者」として率直な感想を述べていたので、好感だけはもてたが、やはり内容は無かった。島田雅彦はそもそも内容的に理解が追いつかないから、妙なアナロジーを繰り返すだけ。本当に「1968」を読んだのかどうかすら怪しい。雨宮処凛は運動家として発言したので、一応一番まともではあったが、やはり世代的にわからない事が多すぎるようだった。総じてあれだけの「大著」に対して、あまりにも実りの無いおしゃべりに終始した。皆どうやら「荷が勝ちすぎていた」ようだ。

 

         IMG_0374_edited-1.jpg

 

 例えば、司会の原が水を向けた視点、「1968」での、近代的不幸から現代的不幸への転換、その現代的不幸に反撥する叛乱としての運動という捉え方に対する議論などは何ひとつも出なかったし、もうひとつ、触れられていないが重要な問題として「日本共産党」について、(あの当時、叛乱に対する敵対者として現れていたが、確実に議席は伸ばしていた) これも発言を促したが、何も言葉は出てこなかった。

 

 

 まあ、期待したほうが間違っていたのかもしれない。

 当時運動に参加した「少数の」活動家たちのほとんどは現在沈黙しているはずだ。「一次資料」にあたるものがないのだ。あるのは無内容な党派の機関誌、ビラくらいだろう。それらは当時の活動家の思想をほぼまったくといっていいほど反映していない。

 そしてまた、「1970年パラダイム」に捉えられて、(これは僕も何回かこのブログに書いたが)、現在に至るまでたとえ少数のものであっても「叛乱」は無い。

 

 結局、僕は壇上から「戦犯ブッシュを裁く」のデモを呼びかけた雨宮処凛の話だけがまっとうに聴けた。

 現在「運動」を組織している雨宮氏の発言を聞いていると、その運動は「反貧困」、現代的不幸でなくまさに近代的不幸に対する闘いのようにみえる。(だからこれは1968年叛乱と違って、心情的な支持は集めるだろう。ただしそういう「支持者」も実際に「味方」になってはくれないだろう。「貧困」とはそういうものだと思う。)

 雨宮氏はあるネットカフェ難民のカップルの話をした。彼女たちの支援でやっと生活保護を受けさせたそうだが、彼らは自分たちの「貧困」を自己責任と考えていて、リストカットなどを繰り返していたそうだ。

 そこまで聴くと、現在の「反貧困」の運動もまた、実は現代的不幸に対する叛乱であることがわかってくる。彼女は「1968」を読んであの時代が羨ましいと発言していた。(そんなことは見当はずれだとも思う。あの時代にあっても、運動に参加したものは実際は少数であった。)願わくは、本に描かれた世代的な体験が現在の彼女たちの運動の何らかの役に立ってくれればと思う。

 

 色々と、考えてしまう日曜日であった。

 

 

 

スポンサーサイト

comment

post comment

  • comment
  • secret
  • 管理者にだけ表示を許可する

trackback

trackbackURL:http://alexisy1789.blog44.fc2.com/tb.php/77-a4ce2903
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。