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「太陽を曳く馬」高村薫

2009. . 14

 味わいつつ、ゆっくり読んで、高村薫「太陽を曳く馬」をついに読み終えた。

 何ともいえない充実感。またこのいまだ覚めやらない興奮は何だろう。「晴子情歌」「新リア王」に続いた高村薫の、これもまた現代文学の頂点ともいえる、完成度の高い作品であった。

 

 禅寺で「修行」していた僧侶末永が、夜、寺を抜け出して交通事故にあって死ぬ。末永がてんかんを持っており病身であって、それを承知で寺で預かっていたのだからと、その「管理責任」を問い、両親が訴える。刑事事件としてどうなるかと、調査がはじまる。ここで刑事・合田雄一郎が登場し、物語が始まる。

 合田はその禅寺「永劫寺」の僧侶たちに会って調べるうちに、末永がもともとオウム真理教の在家信者だったこと、またそれを知りながら寺に迎え入れた一人が、福澤彰閑(彰之)であったことを知る。この彰之の子、秋道が、同棲していた女を玄翁で殴り殺し、その嬰児も放置して死なせ、聴こえていたかすかなCDの音のせいで、隣家の大学生も同じ玄翁で殺すという事件があり、合田は福澤彰之とは何回か会っていたのだ。またそれ以前、福澤彰之の内縁の妻・杉田初江がひとり餓死したときも話を訊いていて、浅からぬ因縁であった。

 

 物語は2001年の合田の捜査を軸に進むが、2つのクライマックスというか山場がある。始めのそれは、この秋道の3年前の殺人事件の経緯と、それに関わる関係者の言葉の数々である。ひたすら絵を描いていた秋道はその当日も部屋の中を真っ赤に塗りつぶし、線を引いていた。「音が」絵を描くのを妨げるので音を止めた、というのが、公判まで含めて秋道本人が語った「殺人動機」のすべてである。ここでは、現代美術について、ポップアートについて、様々な観念的な言葉が飛び交う。だが結局秋道の真実に向き合う言葉は無い。秋道は死刑を言い渡され、2001年に執行される。その年、9.11テロにより崩壊するニューヨークのビルに合田の元妻が居合わせてやはり死んでいる。合田は義兄の電話によりその映像を観る。死刑台(絞首台)からの落下と崩壊するビルからの落下、合田の眼前の2つの死!

 もう一つの山場は、末永をめぐって、またオウム真理教をめぐって、これも3年前の永劫寺サンガ内部に生れた確執に、合田が迫るところである。ここでも、僧侶たちによって延々と言葉の山が築かれる。元オウム真理教信者であって、座禅のスタイルからして「異質」な末永を排除、乃至は無視しようとする僧侶たちと、むしろ積極的に向き合い、その教義も検討しようとする福澤たち。末永が寺を飛び出した時、果たしていつも締められている通用門は開いていたのか?誰かによって開けられたのか?正解は、末永を福澤とともに積極的に迎え入れた明円、永劫寺にその福澤を招いてまたとない仲となったこの明円が合鍵を末永に渡していたのだが、僧侶たちは、当初からこれら事件の全体を知っていて、合田に隠していたのだ。

 末永をめぐるこの僧侶たちの「論争」には後半のかなりの部分が費やされていて、著者の観念的な仏教への、あるいはその「言葉」への思い入れの深さがわかる。ここでは人間存在の、そしてその「観念」の必然性について、(これは実に僕なりの解釈だが)インド仏教と日本の仏教、乃至は「禅」との対比によって、とことん語られる。まさにクライマックスである。

 そして、事件の全貌を観念的にもつかんだところで、合田は、福澤彰之が死刑を待つ秋道に送った手紙をすべて読みはじめる。このいくつかの手紙が、小説の最後にもなり、福澤彰之の言葉による2つの事件(息子・秋道の殺人事件と末永の事故死)の総括にもなっている。ここではその末永が秋道の公判にも来ていたこと、秋道の絵画について、乃至は現代美術についてまで、彰之と会話していたことまでが語られているのだ。そして末永をめぐる果てしない僧侶たちとのやり取りの末に彼がつかんだ人間の認識の根拠、子・秋道の殺人の動機に迫ってゆく。

 

 「晴子情歌」で母・晴子からの膨大な量の手紙を受け取る福澤彰之、「新リア王」で不意に尋ねてきた父・福澤栄と自らの寺で長い対話をする福澤彰之、東大を卒業し、遠洋漁業の漁師になり、その後ずっと僧侶として人生を送った福澤彰之。前作のラストで父を亡くし、内縁の妻を餓死させ、さらにこの作品では、息子が2人を殺して死刑になり、一度入って運営に携わった巨大な禅寺も最後には解体し、また去って子を葬り、小さな庵に落ち着く彰之。彼の心に今映っているのは、子・秋道への最後の手紙に書く、ただ日本海の風が吹きすさぶ、かつて母・晴子と訪れ、初江を連れて行き、また秋道も連れて行った、青森、七里長濱の海岸であった。

 

 このくらい骨組みのがっちりした小説を読むのは本当に素晴らしいことだ。僕はこの高村薫という作家と同時代を生きていて本当によかったと思う。日本の現代史を貫通する、福澤一族を描いたこの3部作のおかげで、この数年間素晴らしく充実した読書の時間が得られた。もちろん、今回の「狂言回し」ともいうべき合田雄一郎が事件を追う「マークスの山」、彼が狂う「照柿」、そして翻弄される「レディ・ジョーカー」のほうの3部作も傑作であった。

 また、雑誌、新聞などで時折読む彼女の時評にも共感することが多い。何よりも彼女がしっかりした時代認識を持ち、権力を凝視し、「言葉」を大切にし、その力を信じているからだと思う。薄っぺらな言葉ばかりが飛び交い、この10年ほどはとてつもなく言葉を粗末にする総理大臣まで何人も抱えてしまった我が日本社会である。彼女のような本物の知性にちゃんと発言を続けて欲しい。もちろん、何といっても、またがっちりした長編小説を送り出して欲しい。

 

 

 

 

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