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新左翼運動について

2008. . 14

 先日ちょっと触れたが、自分の記憶の範囲での新左翼運動のおさらい。

 

   抵抗運動としての日本の新左翼を概観してみよう。日本にも、「68年」は確かにあり、その評価は別としても、初歩的な武装から爆弾闘争までが繰り広げられることになった。しかも闘う主体は基本的には「マルクス主義」をもって任じていたのである。この源流から簡単におさらいしておこう。
 
 1956年、ハンガリーにおける労働者・学生の決起とそれに対するソ連の戦車による弾圧、他ならぬ労働者の国家・社会主義国家を自認していたソ連が労働者の決起に対して銃撃し、武力でこれを制圧したこの事件は、世界に衝撃を与えた。特に、真剣に社会主義革命を考えていた人間にとっては許しがたい暴挙と認識された。このとき、ソ連共産党の発表のままに、ハンガリー労働者の決起を「反革命」であると決め付け、ソ連の武力弾圧を支持するに至った日本共産党に対して、既に疑問を持ち始めていた部分は公然とこれを批判した。
この評価をめぐっては新左翼といえども実はこの段階ですでにいくつかの潮流に分かれていた。つまり、ハンガリー労働者は労働者評議会を組織し『革命』を闘ったのであり、ソ連のほうがスターリン主義『反革命』であるとする潮流。これが本来の新左翼の典型的なスタンスで、トロツキーらの著作により、ソ連型社会主義がスターリン主義によって変質してしまっているという認識を前提としていた。日本共産党などから「トロツキスト」と呼ばれた所以である。また、変質してしまったとはいえソ連は一応、社会主義革命を成し遂げた労働者国家であり、ハンガリー労働者を弾圧したのは誤りだが、ソ連は「反革命」ではなくあくまで社会主義建設上のいわばトラブル、事件であったとする潮流。こちらは純粋トロツキスト、トロツキー教条主義ともいうべき人々の見解が多くそうであった。彼らはその後も「労働者国家無条件擁護」と主張する。あるいは自称「新左翼」にも、日本共産党と同じくハンガリーの『改革』の方が資本主義を志向して社会主義に逆行する「反革命」であるとしてソ連の弾圧を支持するとしたものもあった。これは新左翼を名乗ってみてもスターリン主義の典型である。この論争とスタンスの違いはずっと尾を引いていくことになる。すでにある『社会主義』国家の評価の違いだからだ。毛沢東主義者を含むスターリン主義者は基本的には現にある労働者国家は『変質』しても、つまり『改善』の必要はあっても「社会主義」を実現しつつある擁護すべき国家群であると考えている。実は「新左翼」の看板を掲げながら、この辺がクリアになっていなくて北朝鮮へ『根拠地』を造りに行ってミイラ取りがミイラになったり、『労働者国家無条件擁護』などと言っていたり、はたまた平気で中国文化大革命を絶賛してみたりした、実質的な旧左翼、暴力革命をとなえるだけで新左翼のように錯覚した部分もかなりいた事が今となっては明らかで、のちのち『新左翼』全体が世の中から相手にされなくなる大きな原因でもあったわけだ。もちろん「反スターリン主義」者は、この変質は、世界革命に敵対するものであって、スターリン主義国家内にあってもさらなる革命が必要であると考え、『反帝国主義・反スターリン主義』を唱える。初期革共同はこの中心となる。だいたい、今になって言えば、ソ連邦の『社会主義』なるものは、マルクスの理想とは程遠く、まったく関係のないものに変質し、労働者を解放するのでなく抑圧する体制であったことが明らかになってしまった。もともと、世界史認識からいって、このような「社会主義国家」も、先進資本主義も、後進国、植民地の収奪なしには不可能なのであって、社会主義革命もマルクスの理想も、国家を廃絶し、世界的にしか構想されるはずもない。「社会主義国家」なるものも資本主義の発達、帝国主義のひとつの現象形態にすぎなかったわけだ。いずれにせよ、この時期、ソ連邦におけるスターリン批判、続くハンガリー革命の衝撃によって、日本国内のマルクス主義潮流の中にはっきりと「反スターリン主義」というスタンスが確立し、新左翼の思想的根拠となったのである。

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   また、このころから、日本共産党に対する公然とした批判が行われ、脱退(中央からすると除名であるそうだが)した東大の学生を中心として共産主義者同盟(ブント)が結成され、60年安保闘争時の全学連主流派を形成することになる。新左翼の政治の表舞台への登場である。此の時の指導者たちが、島成郎、姫岡玲司(青木昌彦)、山口一理(佐伯秀光)、西部邁、清水丈夫、らである。その中で、山口一理による「10月革命と我々の道」(1958.1)、姫岡玲司による「民主主義的言辞による資本主義への忠勤―国家独占資本主義段階における改良主義批判」は、その後ブントの理論的支柱となって影響力を持つ。特に後者は、姫岡「国独資」論とよばれ、日本の帝国主義がその高度に発達した資本主義のバックグラウンドのもとに「自立」しアメリカ帝国主義とともに戦争協力するという分析をしていたわけで、日米安保改定阻止闘争にあって、ブントの日本帝国主義打倒の方針を理論的に支えたのである。ちなみに姫岡(青木昌彦)は後に理論経済学研究の道に入り、現在はノーベル経済学賞候補と云われている。

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     60年安保改定阻止闘争は、周知のように史上空前の盛り上がりをみせた。中心は全学連主流派、それを指導するブント、取り囲む社共革新勢力に「指導」された市民・労働者労働者という構図である。このとき、この日米安保条約改定をどう捉えるかも日本共産党の反米民族主義からする「民主・独立」というスタンスと、ブントの、姫岡「国独資」論に示された日本資本主義の発達に基づく日本帝国主義の自立、その対等な日米軍事同盟に対決するというスタンスとは大きな隔たりがあった。だが、闘争自体はその「位置づけ」とは別に、日本がまた戦争をする国家へと変わっていくことへの反撥、日中戦争・太平洋戦争のA級戦犯・岸が権力の座にあって、戦後の「平和と民主主義」を破壊しようとしている事への反撥などにより(なにしろまだ戦後15年しかたっていないのだ。安保改定により、アメリカと運命をともにする軍事国家に再編されてゆく事に対する危機意識は現在とは比べ物にならないだろう。)市民・労働者の膨大な決起がもたらされたというべきだろう。安保ブントはいわばそのエネルギーを『左から』支え、かつ学生の尻を叩いて国会突入を含む戦術面での過激化を担ったのだ。もちろん主観的には社会主義革命、自衛隊との対峙、米軍との対峙まで視野に入っていただろう。だが、安保闘争はあくまで、特定の政治課題として、安保条約を廃棄せよとする闘争であり、だからこそ現実味をもって多くの市民・労働者に受け入れられた。また、このとき東大生、樺美智子さんを虐殺され、国会構内集会を闘った全学連は多くの人々に支持された。逆に、国会突入を「跳ね上がり」と非難した日本共産党のほうが非難され、あるいはこの闘いを全体指導しきれず、闘いきれず、スケジュール消化と国会でのなれあい、裏取引で過ごそうとした自称「革新」勢力ももはや労働者市民の憎しみを買うばかりであった。安保ブントは時の政権を文字通り瓦解させ、労働者・市民・学生を10万人規模で街頭に動員したのである。ただし、安保闘争は6月の条約自然承認をもって終結し、ブントはあっけなく解体してしまう。先にあげた指導者たちも精神科医として地域医療に入った島や後に中核派トップになる清水を別にすればほとんど召還して右転向してしまう。良くも悪くも彼らは皆、大学進学率が10%程度の頃の東大生エリートであった。このとき安保闘争を支えた中堅の活動家たちが、「革命の理想」とマルクス主義を捨てずに、安保闘争の総括を巡って様々なスタンスを取りつつも、60年代半ばに新左翼各派の指導層を形成してゆくことになる。日本の新左翼はこうして誕生した。ハンガリー革命の衝撃、60年安保闘争を契機とし、その後の一定の衰退期を経て、60年代後半の昂揚が準備されるのである。
 ブント解体のあと、指導部の一部は革共同に合流することになる。安保闘争が敗北したのは指導したブントが党として駄目だったからであり、反帝国主義・反スターリン主義で日本共産党などに変わる新しい前衛党を作らなければならないとされた。その後、この革共同が第三次分裂で政治局多数派の中核派と学生多数派、革マル派とに分裂し、70年代に血で血を洗う内ゲバ(当事者同士は反革命との戦争であって内ゲバではないという事になった)になっていく。また、この頃、純粋トロツキストの第4インター、社会党が共産党の民青同盟に対抗して創った社青同の中で反レーニン主義(ローザ主義)を任じる解放派、共産党を除名された知識人を中心とした構造改革派、なども現れてくる。ブントも、指導部が解体しても、各大学に残った主力の活動家は運動を継続していて、関西では、関西ブントとして集合し、関東は特に明治、中央の独立ブント系、毛沢東主義を掲げるML系、独自の経済学理論を持ち、経済危機論で世界資本主義の危機をアジったマル戦派など、第2次ブント諸派がこのころ形をなしてきて、いわゆる5流14派といわれる新左翼諸派が出揃うことになる。こうして、慶応、早稲田の学費闘争、日韓闘争、原潜寄港阻止闘争などを経て、ブントとともに解体してしまった全学連の再建が果たされる。中核派、ブント統一派、社青同解放派による3派全学連である。そして、再建されたばかりで迎えた明大学費闘争の責任問題で、全学連委員長がブントの斉藤克彦から中核の秋山勝行に代わる。新左翼の2度目の昂揚のきっかけとなる67年10.8羽田闘争はこの3派全学連によって準備され闘われるのである。この辺までの歴史的事実は評価も含めてだいたい常識のなかであろう。
 
 さて、いよいよ10.8である。すべてはここからはじまった。この日、三派全学連は合計約2,000名の部隊で、ヘルメットとゲバ棒(角材)で武装して羽田へ向かった。ときの佐藤首相は、この南ベトナム訪問と続く訪米によって、ベトナム戦争の支持からさらなる戦争協力へ、「参戦国化」へ大きく踏み出そうとしていたのだから、ベトナム反戦闘争を闘おうとする学生の佐藤南ベトナム訪問阻止・実力闘争の意義は計り知れないものがあった。当日、社学同・解放派の部隊は高速道路で機動隊を追い、穴守橋で警官隊と激突、中核派は弁天橋で警備車両を奪い、阻止線を突破した。60年安保闘争以降はじめて、警備側の阻止線を突破したのである。佐藤は飛び立ってしまったが、なお闘いは続けられ、負傷者200名以上、逮捕者60名、そして、京大生山崎博昭君の虐殺(権力側は学生側が奪って運転した警備車による事故死と発表した)という大きな犠牲を払った。この闘いは世界中で報道され、アメリカの新聞ではトップニュースで扱われ、英BBCでもくりかえし放送された。一方日本のマスコミは、暴徒学生キャンペーンを張り、徹底的に叩く事になった。のちに、一部マスコミがとってつけたように、反戦運動にあるいは全共闘系学生に同情的なようなことをいっても、信用されなかったのはこのときの一方的な決め付けがあったからである。

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    この闘いのインパクトは大きく、マスコミの暴力学生非難のキャンペーンにもかかわらず、討論の輪は確実に拡がっていった。このあと新左翼の反戦運動に参加してゆく学生・市民・労働者の数は多く、70年安保闘争にむけて、新左翼の街頭闘争への動員力が増していくことになる。また、10.8には反戦青年委員会の労働者が200名あまり参加したこともあり、その後、とくに69年以後、新左翼各派は実は労働者が主力の組織になってゆく。これも全共闘運動のインパクトのため、よく誤解されているが、新左翼とは学生運動プロパーの話ではない。ともあれ、この10.8からあけて68年1月の佐世保、エンタープライズ入港阻止闘争、3,4月王子野戦病院開設阻止闘争、三里塚空港反対闘争、といわゆる「激動の7ヶ月」の実力闘争が闘われ、デモの先頭にいる部隊のヘルメットにゲバ棒という「スタイル」も定着する。そして68年には新左翼運動のもうひとつのインパクトというべき全国学園闘争が、東大・日大を中心に繰り広げられる。「全共闘運動」である。学生に限っていえば、新左翼はこの3世代、60年安保を闘った世代、67~68の街頭政治闘争を準備し闘った三派世代、そして、基本的には10.8のインパクト、乃至はその後の街頭闘争の影響を受けて決起し、学園闘争を通じて運動に参加したノンセクト(無党派)を含めた全共闘世代である。その次の、70年代に入ってからの運動を支える学生は、基本的に、激動の7ヶ月にはまだ高校生であり、また69年の東大闘争敗北後の各学園キャンパスは、1党派支配のもとで運動が沈静化しているか、「内ゲバ」真っ盛りで、権力とのゲバルトよりも、そちらの方が忙しかった筈である。特に、連合赤軍事件、中核・革マルの凄惨な戦争のなかで、運動の動員力、野次馬、シンパなど取り巻きもすべて激減していて、新左翼は急速に衰退するのである。だから、世代として語れるのはこの3世代であろう。
 それではまず、この10.8の総括、受け止め方は各党派、市民・労働者・学生にとってどのようであったのだろうか。ひとりの死者を出して闘った中核派はその後の激動の7ヶ月をリードしてゆくことになる。日本帝国主義のベトナム戦争加担に対する実力闘争、これを日本帝国主義のアジア侵略の第1歩と考え、「日帝のアジア侵略を内乱へ」といういわばボルシェビキの「戦争を内乱へ」をなぞったスローガンに結び付けてゆく。反戦闘争を反帝国主義闘争に意識化し、革命運動に高めようというわけだ。ブントは後に赤軍派を形成して分派する塩見孝也により「国際主義と組織された暴力」という文書でこの実力闘争を位置付け、この闘い自体もはや単なる反戦闘争でなく反帝闘争であり革命闘争の萌芽であるとした。こうして68年秋、10.21国際反戦デーの方針が決められてゆくのである。中核派はべ平連など他の反戦運動勢力も巻き込みつつ、同年10.8同様の米軍タンクローリー車阻止新宿闘争を主張、ブントは防衛庁攻撃=中央権力闘争を主張し、それぞれ実行する。解放派は戦闘的国会デモから新宿へ合流する。 


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    10.21はたぶん新左翼街頭闘争の頂点といってよい盛り上がりをみせ、野次馬をも巻き込んで、夜中まで各所で機動隊との武闘が繰り広げられ、ついに騒乱罪が適用されるに至った。現在から考えれば、世界的にも、反戦運動の盛り上がりの中で可能だった初歩的な「武装闘争」が革命闘争の始まりでない事など明白で、このまま、首相官邸占拠だの、国会議事堂占拠だのと、勢いをつけて叫んでみたところで、革命になどはなるはずがなかった。この時でも、各派の指導者はそのくらいのことはわかっていたと思う。だが関西ブントの一部だけは超主観主義ともいうべき妄想で後の赤軍派にいたるフラクションを形成する。新左翼運動の頂点で、その負の側面、「自然成長する暴力と主観主義」もこのころから運動の前提になってしまう。このタイプの主観主義は実はこれがはじめてではない。60年安保闘争敗北後も、闘争のもっとも厳しい局面では前進を妨げ、後になって急進的なことを言って指導部を批判する勢力はあらわれた。いわく、安保改定を階級決戦として闘わなかったのが敗北の原因だ、(もっと過激に闘えば革命が出来た筈だ!)とする東大本郷のグループ(革通派)がそれである。彼らは姫岡国独資論を経済主義・日和見主義と批判した。こうした口先の「過激派」は闘争の後で必ず現れてくる。革命のプランなど何も無いのに革命情勢であると錯覚し、ただただより過激な戦術を主張するのだ。ただし60年安保後の革通派などと違って、赤軍派は、主観主義をそのまま行動に移した。東京戦争・大阪戦争などの方針のもとに軍事路線をとり、うまくいかず、権力においつめられた果てに、とても新左翼といえないような、反米愛国路線の毛沢東主義者「革命左派」と野合し、連合赤軍の結成にいたる。誰でも知っている悲劇の始まりであり、新左翼運動の決定的な衰退を招いた。さらに言えば、この種の人々はまだまだこれに懲りず、これらの一連の『事件』のあとで、「あさま山荘の銃撃戦は正しかったが、その前のリンチ殺人は間違っていた」などと、同じ部隊、同じ指導者の、同じ思想と路線から出てきたことを別々に分けて批判するといういい加減な総括までやってのけ、無内容・無反省極まりない事をいいつのり、いわば恥の上塗りをやり、ますます世の中から相手にされなくなった。

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  各党派部隊を先頭にした街頭政治闘争、全共闘運動として全学バリケード封鎖をもって闘われた各大学の学園闘争も、72~3年には衰退してくる。取り囲む野次馬も、真面目なシンパ層も極端に減ってしまうのだ。これにはこの連合赤軍事件などの他にもうひとつ大きな理由がある。いうまでもなく、革マル派を軸にした各派の内ゲバである。70年夏、法大における中核派による革マル派学生のリンチ殺人とそれに対する革マル派による報復。翌71年、関西で革マル派によって中核派の2名の学生が殺されるに至る。以後、殺人を含む、両者の「戦争」はエスカレートし、それに解放派を含む他党派・無党派の活動家もからみ、『内ゲバ』は重傷者、逮捕者、死者まで、権力との闘いのそれよりはるかに増えていくのである。それだけではない。他党派を排除してある党派が大学の自治会などを一元支配すると、憲兵隊宜しくその大学の左翼的活動をパトロールし、芽をつぶしてしまうことまでやるようになっていく。これでは運動が衰退するのは当たり前である。もっともその種の党派にとっては自分の党派以外の運動は左翼的とも革命的ともいえず、下手すると『反革命』だからつぶしても当然だし場合によっては殺人も許されるという理屈になっていたのだろう。従ってこの頃それでも大きな人数の組織をかかえていた3党派(中核派、解放派、革マル派)は組織を軍団化したし、他の党派はせいぜい2桁の部隊を街頭にそれぞれ動員できたにすぎない。もはや社会的影響力など持ちようも無く、各派は団結どころか更なる分裂、解体においこまれていった。さらに最も過激でアナーキーな部分はばらばらに組織された企業爆破闘争にまで走っていった。
 
 以上、56年ハンガリー革命の衝撃から、誕生し、60年代後半の最盛期を経て、72年・連赤事件とそれに続く数知れない内ゲバ事件による壊滅にいたるまで、日本の新左翼運動とは結局わずか20年である。一方で限りなく虚しくみえる。だがそれでも日本の戦後に確固として果した思想的な意味は大きなものがある。それは、つまりここから学ぶべきは、現在も果断なく進んでいるグローバリズム、乃至はアナーキーに剥き出しになった資本主義の暴力に対する抵抗の精神であろう。「ベルリンの壁」崩壊以降、福祉のイデオロギー、見せ掛けの労働者保護の必要のなくなった巨大資本は、あらゆる「規制」を取り外して原始的で暴力的な姿で現出している。まさに国家独占資本主義の時代であり、それへの抵抗は徹底的に個人に依拠し、暴力も含めた「決起」としての対権力の闘いである。「連帯を求めて孤立を恐れない」闘いの思想。これこそが今日に生きるべき新左翼の思想的宝であったろう。逆に思想的退廃は、情勢分析の、3ブロック論とか危機論にみられる超客観主義と主観主義的暴力の無媒介な結びつきからきている。己の側はいつも正義であるとする思い込み、思想を問うのに思想の持ち主を抹殺すれば思想が無くせる、乃至は抹殺されればその思想が間違いであったというような機能主義、官僚主義をそれは生み出してしまった。抵抗運動が「前衛党」などによって組織されえず、労働者・市民・学生諸個人の反戦闘争を軸とした決起であったことを思い起こせば、そのような退廃は防げたのだ。20年の短い歴史をもう一度振り返ってここで原点に戻って考え直したほうが良いと思う次第である。
 何より新左翼諸党派は現存する国家、国家権力、大資本に対する批判と抵抗は理論化できたが、みずからの組織論から、ひいては一般的な権力論、国家論を提起出来なかった。従って、来るべき過渡期社会、プロレタリア独裁、乃至は批判してきた戦後的民主主義、近代主義にかわる民主主義としての社会主義―共産主義の像をも提示できなかった。スターリン主義による国家管理のどこが間違っているかは云えても、どこまで国家所有するのか、しないのか、社会所有とは何か、私的所有はどこまでならOKなのか、現存する政治権力に対置して具体的に示す事も出来なかった。党派ごとにばらばらだっただけではない。当時の文書や各党派の綱領をみても、そこまで議論されていなかったとしか思えない。そのカリカチュアが赤軍派の3週間国会占拠という「臨時革命政府」方針だ。4週目以降どうするつもりだったのか?「建設より破壊」というのは掛け声としてだけなら良いが、政治党派としてそれでは困るのである。無いものをあるように云っていたところが余計始末に負えなかったわけだ。安保ブント以来、何も変わらずむしろ自ら大衆であって「無いものは無い」ことをおおらかに明らかにし、公開論争を提起して闘う度量のほうが大切だった。
 いずれにせよ、新左翼誕生から消滅の約20年より、その後のほうが長く、30年以上経ってしまった。刻み込まれた遺産は大切だが、かつての活動家もいつまでも思い出と自慢話に酔っている場合ではないだろう。世界はますます格差拡大、貧困の増大、戦争の過酷化の時代にむかっているのだ。この間、WTOやサミットのたびに反グローバリズムの運動など、一定の戦闘的運動が世界的に成長してきている。背景の組織もそれほど硬直化しているようには見えないから、期待していいのかもしれない。だが、同時に難を言えば「思想」がみえない。抵抗運動としてだけならそれでよいのかもしれないが、それではかつての新左翼運動の縮小再生産だ。ニヒリズムに陥ることなく、議論の輪が拡がることを願ってやまない。

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