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「ダブリナーズ」

2009. . 09

 この週末、柳瀬尚紀氏の新訳「ダブリナーズ」を読み耽った。

 「新訳」は、ここのところブームである。亀山郁夫氏の「カラマーゾフの兄弟」はベストセラーになり、村上春樹がフィッツジェラルドやチャンドラーの新訳を出した。楽しんだところである。

 柳瀬尚紀氏はジョイスの大作「フィネガンズ・ウェイク」も訳したジョイス研究の第一人者であり、翻訳の名人とも言われる人だ。文庫本が出ていたのですぐに買って読んだ次第である。期待にたがわず、各編のタイトル後に写真・図版なども配され、良い本に仕上がっていた。

 「ダブリナーズ」は僕には大変思い入れのある作品である。高校時代、以前の安藤一郎氏訳「ダブリン市民」を読み、打たれるものがあった。大学に入ったばかりのころ、僕は期待していた社会科学系の授業がつまらなくてさぼってばかりいた。「西洋史」にいたっては高校で受けた授業やゼミでやった「世界史」のほうがはるかに内容も豊かで水準も高かった。大学でこんなものかとがっかりしたものだ。そんな中で、しっかり訓練する語学の授業や、原典購読にあたる講義はさすがに内容のあるものがあった。津田先生という美しい女性教授による"Dubliners”の講義は、日吉まで出かけてゆく楽しみのひとつだった。有名なジョイスの"EPIPHANY" とともに、先生は、この「ダブりナーズ」全編を貫く "PARALYSED”という感覚を説明してくれたものだ。

 

422px-JamesJoyce1904.jpg  

 

周知のように、この作品は15の短編で構成されている。後の編に進むほどそれぞれの主人公の年齢があがってゆくのだが、どの男女も、このダブリンという都市の日常に絡めとられていて、生活を変えたくても変えられない。まだ幼い子供も、淡い恋心を抱いてなけなしの金で贈り物を買おうとする少年も、駆け落ちしようとする若い女も、ロンドンで「成功」したらしい友人と行きなれない店で一杯やって語り合ったすえ、妻と幼い子供のいる家へ帰ってくる男も、仕事と上司に不満でパブの酒で憂さ晴らしをし、やはり家に帰って子供に八つ当たりする男も、あるいはまた、人妻にほのかな思いを抱き、その人妻のほうが逆に夢中になり、別れた後、彼女がアルコールにおぼれ、自殺?してもなお、自分のありようを正当化し続ける男も、皆が皆、自分に気がつくと腹の底から「ダブリナー」であって、暗く、不満がたまり、しかしどうしようもないのだ。日常から踏み出したいものの踏み出せないでいる。まさに都市の内的な力、包み込むような力に捉えられて、無力である自分を悟るのである。

 この「新訳」は解説を読んではじめてわかることも多かったが、軽やかに読み通せる良い翻訳だと思う。全体が良く見渡せるのだ。これはこの作品(短編集)の場合とても大切なキーだ。

 僕は昔を思い出しながら、久しぶりにまた小説の世界にしっかり浸ることが出来た。

 (実は数年前にアイルランドへ出張したとき、当然ダブリンに立ち寄ったのだが、駆け足でほとんどおぼえていない。残念だ。今度落ち着いて行ってみたいものだ。)

 

 今更ながら、「翻訳」というのはとても重要だ。先日、友人と話したものだが、かつてミシェル・フーコーが来日した際に吉本隆明と対談したことがあった。大分たってから、吉本「共同幻想論」をフランス語に翻訳しようとした中田平という人が、この対談のとき「共同幻想」がどう通訳されたかを調べた。なんと"FANTASME COLLECTIF”と訳されていたという。彼は驚いたそうだ。当然である。僕たちのレベルでもわかる。これでは「集団幻覚」のようで、まるで新興宗教かなにかのようではないか。フーコーはどう思っただろう。吉本を日本ローカルなもの書きと思ったのではないだろうか。なぜ"ILLUSION COMMUNE”でないのか。彼(中田氏)は追求したがわからなかった。ヘーゲルでも、マルクスでも、国家が共同の幻想であるというときの「幻想」は"ILLUSION“である。ドイツ語でも英語でもこちらである。彼は当然、この“ILLUSION COMMUNE”を使って翻訳した。(後に吉本本人はILLUSION GENERAL というとわかりやすいと語っている。)そうしたら、何と京都大学の研究グループから「あれはFANTASMEでやることになっている。そもそも君の翻訳は統語法もおかしい」と抗議の電話があったそうである。中田氏は大変怒っている。

 僕はこの話を読んで、これは、東大(対談の通訳)や京大のアカデミズムの世界にいる人たちが、吉本を在野の、日本ローカルな「評論家」にしておきたいという願望を強く持っていて、この翻訳がいわば「政治的に」なされたのではないかと思った。彼らにFANTASMEとILLUSIONの違いが解らないはずもないからだ。吉本がフーコーと対等に噛み合った対談をすること自体がそもそも気に食わなかったのであろう。またその思想が世界水準に達していることなど思いもよらないどころか、彼らにとっては「あってはならない」事だったのだろう。吉本が在野の「評論家」か「詩人」であるのはかまわないが、こともあろうに自分たちが研究対象にしたり翻訳したりしているミシェル・フーコーと「まともに」対談することなど許せなかったのだろう。吉本をどうしてもドメスティックな評論家の位置に押し留め、自分たち大学人のステイタスやプライドを守ったのだろう。

 

 世界がどんどん狭くなり、海外の文学、評論も、大学人の専売特許などではもうなくなってきている。新しい、より正確で筆者の意図に近い翻訳が、次々に僕たちに届けられるのはすばらしいことだ。また、僕は吉本クラスの人は逆にどんどん海外に紹介されて欲しい。ただそれは、例えばフランスであれば、フランス語ネイティヴ、つまり完全にフランス語の世界に入った人が日本語のほうをよく理解してフランス語に翻訳するということがないと、残念ながら難しいと思う。翻訳とはそういうものだろうと思う。

 

 まだまだ読書の楽しみは尽きないが、自分の語学力も少しはましにしなければいけないのかもしれない。今月は村上春樹の新作が出るそうだし、佐藤賢一「フランス革命」第3巻も出るはずである。楽しみなことだ。

 

 

 

 

 

 

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