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吉本隆明

2009. . 19

 1月4日のTV番組で吉本を観た。(このETV特集は良い番組で先日の加藤周一に続くものだ。)最近の講演に行っている人は知っているのかもしれないが、とにかく老いていた。しかししっかりしていた。感動的であった。部屋の中をはうようにして歩いているのに、講演に車椅子で登場するのに、その話のなんと明晰なこと。(話し方はあいかわらず上手いとは言い難いが。)

 僕は頑固な吉本主義者である。吉本を読み込んできた人なら解ると思うが実はこれは教条主義を排する事とイコールでもある。また、吉本を読んでいない人、半端にしか読まなかった人からはよく揶揄されることになるものだ。ただ、その僕にして、最近出版された本の内容というか無内容にがっかりしていたものだ。「中学生の社会科」とかいう本にいたってはこれが吉本かと疑うほどわけのわからない粗雑な文章だった。そこに「老い」を感じた吉本の愛読者も多かったと思う。今回の番組はそんないわば「余計なお世話」を思い切り吹き飛ばしてくれたようだ。親友はこれをDVDに落としてくれたそうなので楽しみにしている。貴重な記録になって残るだろう。

 

 吉本がいろいろと、敗戦時の経験から、世界認識の必要性、アダム・スミスなど経済学、特に労働価値説の読み込みなどを説明していくその内容は、吉本の読者にはお馴染みだろう。どこにアクセントを置くかの違いがあるだけだ。だからこれもずっと吉本が云って来たことではあるが、今回とくに、彼が「死ぬ前に」とでも言いたげにアクセントをおいて最後に繰り返したこと、それは「言語の根幹は沈黙だ」ということだった。コミュニケーションの道具としての言語というのは、それは枝葉であって、根幹は沈黙なのだと。これはかつて「言語にとって美とは何か」を読んだひとはすぐ了解できる彼の言語思想の中核である。自己表出と指示表出のことを言っているのだ。さらに最近まで追及し書きつづけられた「心的現象論」でもふれて再確認している。

 僕は高校生の頃一知半解ながら懸命にこの「言・美」を読んだものだ。当時の国語学の権威はこれをこぞって批判していた。みんな「国語学になっていない」とでもいいたげなさかしらげな批判であった。有名な、原始人が海に出て「海(う)」と発するくだり、その「さわり」の意識のくだり、ここに吉本は自己表出、言語の発生と本質をみて議論を展開するのだが、当時の権威ある学者たちはこれがわけがわからず、その段階ではそれは「言語ではない」と云ったものだ。もっともそんな風にきちんと批判した学者はまだいいほうで、多くは当時「詩人」でせいぜい「評論家」にすぎず、大学教授でもない吉本が体系的な書物をものにしたこと自体に、アカデミズムの世界からの不快感を表明し、無視乃至は黙殺することをわざわざ発言したものだ。今となっては、当時の学者たちの水準が吉本よりずっと低いものだったことが常識になってしまった。当書のあとがきではないが吉本の「勝利」である。この自己表出・指示表出、あるいは「喩」に関する吉本の議論は大変優れていて当時の権威に安住していた学者たちが理解すらできない高い水準にすでに達していたのだ。

 

 また、僕は当時、ずいぶん背伸びしたものだが、みすずから出版されたばかりのメルロー・ポンティ「シーニュ1」を読んでいた。クラスメートの従姉妹がみすずに勤めていたので高かった本を安く手に入れるために彼女をたずねて本郷にある個人宅のようだったみすず書房に出かけて手に入れた貴重な本であった。これも一知半解であったが何故か興奮して読んだ。(翻訳がどうも問題があると知るのはずっと後になってのことだ。)このとき、この講義録の最初、「間接的言語と沈黙の声」でメルロー・ポンティは吉本と重なり合うことを云っていた。「言語の創造的使用と経験的使用」あるいは言葉を発する時の主体の中でおこることと発せられた後でもつ意味、それらがちょうど吉本の自己表出・指示表出と対応するかのように様々に説明されていた。何よりも、色々云いながらも彼もまた「言語とは・・・沈黙である。」とはっきりと云っていた。メルロー・ポンティは根源的にセザンヌやマネの絵画、絵を描くという行為についても沈黙の言語と並べて説明できるとしていたのだ。

 そんなことで「本の虫」であった高校生の僕には吉本の「言・美」はストレートに飛び込んできたのだった。やはり当時出版された「自立の思想的拠点」、中でも『日本のナショナリズム』などよく読んだものだ。そこでも吉本は、小学校唱歌まで引用しつつ、コミュニケーションとしての言語がいかに「枝葉」であるかを指摘し、「上げ底化された」日本のナショナリズムを分析していた。僕はそのころから現在に至るまで忠実な吉本の読者であるわけだ。この年になっても、長い間吉本を読んできた事は人生の大きな支えだったと思う。

 

 正月TVばかり観ていたが、こんなおおきな収穫もあった。「言語の本質が沈黙にある」こととは考えてみれば根源的なメッセージである。人間の本質、そして近代の自由、平等という概念の本質にそれは迫るものだからだ。吉本の言う枝葉の部分の言語というのは、そのまま、様々な分野のいわば人間の優劣や「格差」に直接対応している。人間の言語という表現能力の違い、個体差、あるいは身体障害や健常、もちろんそれらはすべて枝葉にすぎない、だから自己表出という本源的なところで人間は自由で平等なのだと吉本は言っているのだ。老いた吉本の遺言のような深いメッセージだ。敗戦以降、世界を丸ごと認識できなければ自分が生きていく価値がないとばかりに、まさに「全幻想領域の止揚」を課題として長い年月をかけて研鑽に研鑽をかさねた末に、もっとも「遠くまで行った」思想家から発せられた、これはメッセージである。

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