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T.K.君の想い出

2013. . 23
  暑い夏の午後。8月3日。翌日、契約作家の来日から忙しくなるという前日であった。去年、件の「高校紛争」出版を祝う会の呼びかけ人として、また司会とサブを務めた縁で、再会したO君と一杯やろうということになり、彼の家の近所で飲んでいた。
 「情況」のO氏が同席して教えてくれた。「T.K.君が亡くなった。今朝のことだ。」 重篤な癌で、ずっと深刻な状態であったことは別な知人から聞いていた。だから驚かなかった。だが、力が抜けるようにがっくりときた。
 O氏によれば、彼ら旧世代(2次ブント?)と今の若者たちを繋げる橋渡しのような役は彼にしか出来なかったとのことだ。優れたコミュニケーション能力、文章力を持った彼のことだ。なるほどと思った。

 T.K.君とは、高校生運動のなかで知り合った。彼の1年上の、同じ教育大付属高校の活動家の紹介であった。日本橋に住んでいたので、当時家に行ったのをよく覚えている。「勉強部屋」の彼のデスクが、壁ではなく中央の空間に向かって置いてあったのが印象的だった。目を細めてお母さんが言ったものだ。彼は小さい時から何でもこの机でやった。おやつを食べるのも、勉強も、読書も。寝転がって本を読むなどということは絶対にないのだ と。もちろん今風の「書斎」などではない。昭和の下町の、畳の、いわゆる「子供の勉強部屋」である。それが強烈に知的な雰囲気だった。一年上だった僕は圧倒されて気恥ずかしかったくらいだ。
 実際、「超」のつく優等生として小学校を卒業した彼は国立の教育大付属中へ進む。当時、下町の小学校にいると、だいたい、ものすごく「出来る」子が、学年で一人か二人、ここに合格する。それも「名門」小学校だけの話。あとの「出来る」受験組で家庭に余裕があれば、地域的に開成を狙う。それでももちろんすごい難関だった。が、教育大付属はそれ以上の難関として知られていた。
 後で聞いたのだが、彼と同学年で、麻布、開成、あるいは教育大付属、教育大付属駒場など難関校へ進学した男子たちはほとんどが彼の姓名を覚えていた。その三文字の姓名が、当時のトップ進学教室「日本進学」の全国模試で、各科目上位者に絶えず登場していたからだそうだ。いかに出来る小学生だったかよくわかる。
 
 読書家で勉強家で、本物の優等生だった彼は、だがそれを表に出すのを嫌った。都会っ子のはにかみである。活動家としてかなり厳しい局面にあってもユーモアを忘れず、気負いを見せなかった。
 高校生運動に入った理由を聞かれて、「いちご白書」と同じだよ、ボート部だったし、モテたかったし。と言って微笑む。
 革マル派の一元支配下の早稲田一文で、川口君虐殺後、彼らとの緊張が一気に高まった頃、活動家とみられて眼をつけられないように、彼は伸ばしていた髪を短く刈り込んだ。「高倉健みてえ」と言ってニヤリと笑い、皆を爆笑させたことがあった。鞄に武器を隠さねばならなかった最中のことである。

 その早稲田一文に、高校時代活動に明け暮れながら、彼は現役で合格した。一文の入試は現代国語の長文読解がキーであり、難問なのだが、彼は入試のあとこともなげに言った。「易しかった。」「オレ出典わかった。中山義秀だ。『厚物咲』だ。」 芥川賞作家ではあるが、当時、中山義秀のその作品を同世代でどれだけのものが読んでいただろう。

 癌で病床に入る最近まで、いや病床からも出てきたそうだが、彼は沖縄問題に打ち込み、執筆や講演をこなしていた。なにより、同世代の、数少ない、「現役の」活動家であった。ブント再編による「新しい左翼の極」を、本気で目指していたようだ。僕たちのような、いわば「召還」してしまったものとは違うのである。2次ブントOBたちががっかりしているのが目に浮かぶが、僕たちには同世代なりの思い入れが彼にはあった。

 残念だ。思えば先般亡くなったY君と彼T.K.君は同い年である。自分より若い人が亡くなるのは嫌なものだ。
 合掌。


 
 

 
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