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高校紛争 1969-1970 - 「闘争」の歴史と証言

2012. . 01

 「高校紛争19691970(中公新書)を読んだ。一昨年から取材に協力し、インタビューにも応えたので著者の小林哲夫氏から送って頂いた。
 誠実で丁寧な著者の人柄の通り、高校生運動の歴史的背景と実態が、高知の勤評闘争、60年安保闘争からずっとフォローされ、6970年の最盛期はもちろん、コザ暴動のころを含む沖縄の運動まで、まさに北から南まで全国的に取材されている。僕は当事者でもあり、他校のことも歴史的なこともかなり「知っている」つもりだったが、それでもここに書かれている広い取材からすれば、東京のほんの一部分の出来事にすぎなかった。ずいぶん色々なことがあったのだと改めて思う。前にも書いたが、高校生運動の活動家の層というのは学生運動のそれよりけっこう広い。ただ、やはり若さゆえの甘えだの粋がりだのがあって、今から思えばもっと「こうあるべき」運動の姿というものも考えられ、限界だらけである。だがそんな「後付け」に何の意味もない。とにかく、生意気ながら、一部ではあっても我が世代の高校生は闘った。確かにそれは叛乱であった。そして、本に書かれている通り、背景には戦後民主主義、その「民主主義」教育、そしてベトナム戦争と反戦運動、学生運動の昂揚があった。

 大学生、反戦の労働者に混じっての街頭デモへの参加があり、高校生独自の集会やデモもあった。学校ではさまざまな「要求」が学校側に出され、構内集会、バリケード封鎖、ハンスト、色々な闘いがあった。バリ封がやりたくて、「要求」を整理せず、あるいは安保粉砕とかベトナム反戦とか、政治課題を直接つきつけてバリケードを作った活動家達もいた。

 「紛争」の終焉のかたちも様々だった。退学処分、警官導入を含む徹底的な弾圧で臨んだ学校から、「要求」に応じて、何らかの教育改革や自由化(制服撤廃など)をもって、処分なしで柔軟に対処された学校まで様々なヴァリエーションがあった。当時の僕達は、それは運動の徹底性、あるいは影響力によるものだと信じていたが、後になって考えてみれば、戦争や60年安保を経験してきた教師達が、どのくらい知的にコトを受け止められたか、考えられたかという差によるものだった。当時の高校教師というのは今の僕達よりずっと若いのだ。警察にカオを指差して生徒を「売り渡す」教師もいれば、自らも反戦運動に参加し、あるいは教育改革に乗り出す教師もいたわけだ。どんな教師とどの高校で出会うかによって、高校生側の運命が大きく変わったのだ。

 

 この本を読んで昔のことを思い出した。僕が高校に入った年の秋、10.8羽田闘争があった。社会部の部室では、現地に行った上級生の話を聴いた。そんな高校だった。三一新書の「人知れず微笑まん」や今回の本でもとりあげられる「高知の高校生」は必読書だった。羽田闘争についてはすぐクラスでも討論された。もちろん多数は「(三派全学連の)学生の暴力」を批判したものだった。だが、翌年にはもうベトナム反戦運動は確実に拡がっていった。3月の王子闘争には高校生独自の集会やデモが組織された。校内で僕はベ平連の「殺すな」という反戦バッジを売りまくった。2年生の僕のクラスでは半数以上の生徒が胸に反戦バッジをつけて登校した。その翌年、僕の1年上の卒業生は卒業式を討論集会に切り替えた。「卒闘」である。何人かは大学へ行かず、そのまま党派の専従活動家になり、国鉄や郵便局に入っていった。そしてその秋、僕達の学園闘争、バリケード封鎖があったのだ。
 僕の高校の教師達は、つまらない教師もいたが、大部分は良い意味でリベラルで知的な教師達だった。若く、世間知らずの僕達の、今思えば小生意気な話に、放課後の研究室や喫茶店でいつまでもつきあってくれるような教師達がいた。皆戦争や50年代の闘争を経験した人々だから、話の重みが違う。僕の担任だった国語の教師は戦後の混乱期、やはり教育者だった父親を「人民裁判」で失っていた。過酷な経験である。僕は理系は苦手だったが、地学の教師は科学の基本として唯物論の考え方の説明に最後の授業を割いた。数学の教師はフッサールを紹介し、世界を「根底的に」見直すことを教えた。尊敬していた世界史の教師は大学のような階段教室で、ヨーロッパ帝国主義の発展史、ドイツ統一から第1次、第2次大戦まで何回か特別講義をやった。東大に進学していた卒業生までが、こちらのほうが大学の講義よりよほどためになる本物の歴史の勉強だといって聴きにきたものだ。彼は当時既に、アジア、アフリカの植民地からの収奪を前提にした先進帝国主義国の経済発展について講義し、大学へいって、「西洋史」を分けて学ぶようになっても、歴史をグローバルに視る眼を持ち続けるようにと僕達に語って聞かせた。
 そして、バリ封のときの校長は、あとで知ったのだが、沖縄戦に参加し、彼の所属した部隊は民間人を殺している。戦後、その反省と償いの思想を根底に教育者として生きた。間違っても「高校生の政治活動禁止」などとは言わなかったわけだ。そんな教師達だったのだ。

 

 今の高校生は、あるいは高校教師たちは、現在の支配の暴力が透けて見える社会で、どんな日々を送っているのだろう。反原発のデモなどで高校生の姿をみるととても嬉しい。僕達も高校生の時、年上の大人たちが、「昔俺達は闘った、それにひきかえ今の世代は・・」などと言われるのに無性に腹が立ったものだ。そんな昔話を語るオトナになりたくなかった。闘いの場はいつでも今・そこにあるのだ。

 

 このブログで触れたが、先般フランスでCPEがつぶされたときも、「年金改革」にすさまじい抵抗闘争が組織されたときも中心に高校生たちの姿があった。

 世界の「働く階級」の利害はひとつ。高校生はいつでも闘う権利を持っている。「高校生の政治活動の禁止」などと一方的に自らの「政治的」主張を押し付ける輩には世代を超えて怒りをたたきつけよう。

 

 現在の問題にまでふみこんで考えさせられる良い読書だった。


   
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舛田麻美子 旧姓田中
先生方のそれぞれの歴史と思い、親たちの歴史と思い、そして、感受性の強い歳の私たちに蓄積された解決できない矛盾と思い 党派の思惑 夫々が混じりあいぶつかり合った時だったように思います。私自身は一年の春休みは学校中を掃除して回り、2年の時、政治的な生徒会をリコールしたリコール派でしたし、修学旅行で問題を起こした友人たちに対し批判的な存在でした。それが変わったのは、建国記念の日の登校運動の時でした。登場サルトルを読んでいた私は、国家と個人の関係において、単純に個人の思想が優先されるべきだろうと、強制されるべきではないと思い集会に参加しました。
歴史研究部に属していた私としては日本の国家形成についての明確なる科学的根拠無しの建国記念の日を認めるかどうかは、自身の考えを明確にすべき事と思い詰め、集会場の端で長いこと自問自答を繰り返しデモに参加したっ記憶が有ります。 続き
2012.04.11 10:13
舛田麻美子 旧姓田中
前文が反映されなかったので再送します。


Facebookで同級生からチラッと中公新書の事を昨夜教えてもらいました。調べて注文と同時に貴ブログに行き着きました。実に様々な線が交叉した一年。思い返すと胸が高まります。私自身は中心的位置にいながらある意味傍観者であり、しかし他からみれば党派の活動に入って行った者と一括で括られる存在なのだと痛感します。10月21日のバリケードの時、回りで投石した5人が逮捕されたとありますが、取材ミスです。(^^)その一人は私であります。私もいっしょに参加すると言ったら、お前は女だからダメだと云われ、青高生は3年と2年の二人と他校生が残ったはずです。私は周りにいて機動隊に追っかけられ、靴が大きくて、何しろ普通の革靴はいていましたから、早くも走れず、表参道に出る前のお寺のあたりで逮捕されました。なぜか3日で釈放され、それは逃げただけだからか、父が迎えにきてくれて、家に帰るタクシーの中で黙って片手を大きな手で握ってくれたことを忘れません。先生方のそれぞれの歴史と思い、親たちの歴史と思い、そして、感受性の強い歳の私たちに蓄積された解決できない矛盾と思い 党派の思惑 夫々が混じりあいぶつかり合った時だったように思います。私自身は一年の春休みは学校中を掃除して回り、2年の時、政治的な生徒会をリコールしたリコール派でしたし、修学旅行で問題を起こした友人たちに対し批判的な存在でした。それが変わったのは、建国記念の日の登校運動の時でした。登場サルトルを読んでいた私は、国家と個人の関係において、単純に個人の思想が優先されるべきだろうと、強制されるべきではないと思い集会に参加しました。
2012.04.11 10:14
舛田麻美子 旧姓田中
私達は学校群制度一期生で戸山高校に行きたい派も沢山おり、学校群制度の弊害も大きくあったと思います。
しかし当時の青山高校はいい学校でした。
文化祭も体育祭も山の家も楽しい思い出がたくさんあります。
先生方にもユニークな方がたくさん居ました。
ブログでご紹介の先生方をはじめ、音楽のカバさんが、授業で教えてくださり、試験の課題にされた、Sunrise Sunset    Tonight   フィガロの結婚など未だに口をついて出ます。
英語のN先生も聞く耳を持たない私にずいぶん長いこと渋谷の喫茶店で話をしてくださいました。

ノンポリが急激に変化する、周りは私の変化に戸惑っていました。
様々な経緯のがあったものの、皆が結局大学進学を選択する中で、工場労働者になろうと決め電気会社に入社しました。社会の中に普通に入って行く共が許されなかった。
今はわけのわからない店を経営して生きておりますが、
未だに金持ちにもならず、しかし、若者たちを刺激しながら、職業の中でも日本とは何かを問い続けて踏ん張っている人間がいることも忘れないで欲しい。

Amazonの注文したばかりで未読ながら、日経の書評に若干の違和感を感じながら少々熱くなりながら、心の引き出しを開けてしまいました。長い文章でブログにご迷惑をおかけしていたらお許しください。
2012.04.11 10:18
alexis
舛田麻美子様
コメントありがとうございます。
青山高校にいらっしゃったのですね。
「高校紛争」の頂点というべき象徴的闘争だったと思います。
小生が同校というのは、教師のことからお考えになられたようですが誤解です。小生は上野高校でしたが、書きましたように、知的で、良い意味でリベラルな教師がたくさんいました。
教師集団のあり方によって、闘争の最終局面が高校ごとに大きく変わりました。小林氏の著書にありますように、権力に生徒を指差して「売り渡し」秩序回復をなしとげて不信感だけを残した高校があり、あるいは上野のようにそれなりの「教育改革」をもって終えた高校がありました。
小生は無党派でもあり、たいした活動家でもありませんでしたが、若干横のつながりがあり、どちらのタイプの高校も活動家達も知っています。その後の彼らのことも気になっていましたので、この本は万感の思いを持って読み終えました。事前の取材などにもわずかながら協力しました。

そんなわけで、当時の高校生運動にかかわった人には、直接の面識がなくても、なぜか懐かしさと親しみを感じます。

これからも機会があれば、ブログにコメントをいただければ幸いです。


2012.04.11 14:47

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