荒れ草だけの口をひらき
歯なみだけが妙に清潔な一九六七年初夏
こわれやすい陶器で熱い沈黙をまえに
怒りにしまる腰を裂きえぬあなたに
なにをあげよう
地下室に墜ちている蝶
薄暗い納屋でひえている水のような愛
ここは純喫茶男爵だから
美しい観念の髭をはやしてわたしは
のど首をつたう欲望をねくたいでしめ
にがい精神をまっすぐ胸中に垂らしている
なにをあげよう
湧きでる唾液にやわらかな言葉は溶け
わずかに裂けるあなたの語り口に透ける夜街ふかく
ゆっくり醒めるわたしは
夢の中心にまで踏み迷い
まっさおな銃口を朝にひらいた銃座にうずくまり
いっせいに顔をあげる日まわりの花芯を狙っている
なにをあげよう
待ち焦がれるのどをおさえ
かがやく飢餓がたちあがる夜
銃声は遠く臓腑に響き
みだれちる死に花のなか
つめたい汗光る首すじを
男爵のようにたてるわたしは
かかえきれぬ熟れに責めぐあなたの
両の乳房のあいだでするどく割れる悲鳴を
聞く
『男爵』清水昶(「少年」より)
それはとても美しい詩集だった。中村宏の装丁と挿画、白い表紙、出版したのは永井出版企画。この永井さんという方はとても凝った人で、「芸術・国家論集」というリトルマガジンを4号まで出した。
1969年も終わりごろだったと思う。この詩集「少年」(清水昶)を、僕は当時のガールフレンドに教えられた。手にとって粗末な函から美しい装丁の本体を抜き、ページを開き、詩の言葉の美しさ、清水昶特有の磨きぬかれた言葉、独特なリズムを生み出す改行などに素直に感動した。後に自分でも1冊買い求めたほどだ。この詩集は初版はいくらもなかったらしく、数年も経たないうち、古書店では何千円にも価格が跳ね上がっていた。
僕は、他の読者も同じようだったと思うが、彼の美しい詩、その言葉に圧倒され、若かったのだろう、自分の文章に引用したりした。
ただ、その後、70年代も半ばを過ぎ、こちらがわからなくなったのか、彼の方が変わりすぎたのか、とにかく、氏の書くもの、エッセイも評論も僕には退屈に思えるようになってしまった。詩ではなく、俳句を書かれるようになって、その思いはますます強くなった。出合った頃の言葉の美しさ、鮮烈さはもう無かった。
やはり、清水昶は「少年」だなあ、それから「朝の道」。特に「少年」は、何と言っても1960年代後半のあの時代のバックグラウンドなくしては生れなかっただろうと思った。僕は、1940年生まれで同志社大出身の彼自身がどのくらい新左翼運動にコミットしたかは知らない。エッセイ等の中で、デモの帰りに京都のジャズ喫茶でひとときを過ごしたりするくだりがあるので、また、関西の社学同にいたという話も聞いたので、まったく関係ないということは勿論無かっただろう。それに何よりも詩を読めば、時代背景が浮かび上がってくる。当時、やはり「バリケードの中から生れた」といわれた福島泰樹の短歌と同じように、一部の活動家によく知られ、愛された詩であった。やはり僕にとってはあの時代ならではの詩人だったのかもしれない。
そんなわけで、その貴重な詩集も手放してしまった。「少年」、「朝の道」を含めた詩集の詩やエッセイを収録した現代詩文庫の方はもちろんとってあるが。
その清水昶氏が5月30日に亡くなったという。
合掌。
ニュースに接して、当時の、いろいろなことを思い出した。詩も読み返した。鮮烈な言葉。「少年」や「朝の道」にある詩はいまだに輝きを失っていない。書かれた言葉は齢をとらない。清水昶は永遠の「少年」である。
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taka
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清水 昶さんのこと
1970年の正月元旦。
ぼくは、新宿のジャズ喫茶「びざーる」で現代詩手帳の新年号に載っていた清水 昶さんの詩を読みながら帰郷しようかどうか思いあぐねていました。
たしかあれは「銀のように」と言う詩だったと思います。
「ここまできて
男は
銀のように鳴っている」
清冽なフレーズが、ぼくのだれた日常に突き刺さり、一瞬、身の中に緊張感が走ったのを覚えています。
店内ではコルトレーンのMy favorite thingsが流れていました。
今思うとまるでB級映画の追憶シーンのようで気はずかしいことおびただしいのですが、もちろん当時はだれもがそうであるようにいっぱしのパルチザンを気取ってググッとうつむきかげんに、額にたてじわなどを寄せて、何か、哲学めいたことを考えていました。
そんな折に出会った清水昶さんの詩は、私にとっては、若い日の貴重な言語体験でした。
彼の詩を読むとそのときの情景が陽炎のように立ち上がります。
いま、清水さんがどうしているのか、どんな詩を書いているのか残念ながらつまびらかではありませんが(噂では俳句のほうに転身したと聞きましたが・・・)、それからしばらくの間、ぼくは、清水さんの詩の後を追っかけていました。
「火照る土地に生えそろうハガネの林で
傷ひらく正午ふかくわたしは
失楽にひえた薄い口をしめ
熟れきった泥土にもぐる白蛇ににる」
(死顔(デスマスク))
ではじまる第1詩集「少年」。
当時板橋にあった永井企画出版までとんでいって手に入れました。中村宏さんのイラストが印象的なまっしろい表紙の詩集です。
「ここは純喫茶男爵だから
美しい観念の鬚をはやしてわたしは
のど首をつたう欲望をねくたいでしめ
にがい精神をまっすぐ胸中に垂らしている」
(男爵)
毅然とした声調に加え波状的に広がるローアングルの詩的映像は、詩と言う装置が僥倖のように時代の波頭で回転する現場に立ち合わせてくれたように思います。
その後は、気がついてみると詩集が出るたびに買い求め知らずのうちに、ほほ十年余清水さんの詩の跡を追っかけていました。気がついてみると、
「少年」(永井企画出版・1969)
「朝の道」(永井企画出版・1971)
「清水昶詩集」(思潮社現代詩文庫・1973)
「野の舟」(河出書房新社1974)
「夜の椅子」(アディン書房・1976)、
「新しい記憶の果実」(1976)
「泰子先生の海」(思潮社・1979)
「ワグナーの孤独」(思潮社・1981)などの詩集。
「詩の根拠」(冬樹社・1972)
「詩の荒野より」(小沢書店・1975)
「石原吉郎」(国文社・深夜叢書・1975)
「夜の詩人たち」(青土社・1975)
「抒情の遠景」(アディン書房・1976)
「詩よ、光の夢の中を」(小沢書店・1977)
「ふりかえる未来」(九藝出版・1978)
「ぼくらの出発」(思潮社・1987)
などの評論・エッセイ集が手元に残ることになりました。
そしてこれら清水さんの著作を通じて石原吉郎さんや正津勉さんなどにも出会ったことも大きな収穫でした。
しかし、いつのころからでしょう。
ふと清水さんの詩が、微妙にずれ始め、詩自体もどこか自己模倣とでも言うような緩みを内包し始めたのではないかと感じるようになったことを覚えています。
そのころから徐々に清水さんの詩から離れ始め、気が付いたときには、清水さんの詩ばかりではなく、詩そのものから離れ始めていたのかも知れません。
そしてそんな折、偶然に、立松和平さんと話す機会があって、清水さんはどうしていますかと尋ねたら「彼は、すでに老人です」と言っていた言葉が印象的でした。なんとなく納得したような気になったのを覚えています。
》》》》
こんなことを何年も前の日記に記したことすら忘れていたのですが、清水さんが亡くなったという報道を見て、ふと思い出してしまいました。
そんな折、たまたま目にしたあなたのブログに行き着きぶしつけにもコメントを送らせていただきました。
遅まきながら清水さんのご冥福を祈ります。
alexis
taka様
コメントありがとうございます。
読んでいるうち、小生も69年当時の、似たような、というよりほぼ同じ情景を思い出しました。
清水昶の詩集に受けたインパクトも同様だったのだと改めて思います。
同時代を、同じような感覚で受け止めたものとして、(もちろん小生よりずいぶんと鋭敏な感性をお持ちと拝察しますが)今後も宜しくお願いします。
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