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女性作家の小説を読んで

2015. . 28
 女性作家の小説を続けて読んだ。桐野夏生「抱く女」、小池真理子「モンローが死んだ日」。前者は、設定された1972年秋、という、その時代の息遣いが感じられ、同世代の僕は、タイムスリップしたような興奮をおぼえ、楽しい読書だった。後者も作家は同世代だが、作品内容はずっと深く、充実した読書だった。
 桐野氏は、他の作品を読んだことがないが、本作については、素人がプロの作家に対して僭越ではあるが、とにかく「物語」になっていない。時代背景を感じられるということ以外、小説としては、小池真理子氏の足元にも及ばない。登場人物のキャラクター設定が粗雑で、ましてやヒロインが、次々に男に「抱かれて」しまうのだが、その必然性がまったくわからない。最終的にはバンドボーイの男と「本気の」恋におちるのだが、その必然性もわからない。男たちのキャラクター描写がみんな同じように浅いからだ。およそ、「物語」の基本になるべき、主人公のキャラクターにも魅力がない。「抱く女」どころか、「公衆便所」と揶揄されるまで、「抱かれる女」のままである。しかも、これも物語の基本だと思うが、主人公に「葛藤」がない。心理描写が雑なので、要は、どんな人間なのか、が最後までわからない。総じて、小説になっていない。これは「シノプシス」である。というのが、僕の感想だった。小池氏の小説は、従前通り、繊細な心理描写と、時代、年齢、などの設定により、主人公の人間像がきっちりと浮かび上がり、恋に落ちる必然性もよくわかるように描かれている。こちらはまぎれもなく「小説」であり、楽しませてくれる。
 以前、高村薫が、ジョン・ル・カレに似ている、影響を受けていると書いたが、最近の彼女は現代のドストエフスキーのようだ。だとしたら小池真理子は日本のサガンのようだ。

 さて、女性作家の小説を読んでいたら、また、昔の時代を振り返っていたら、僕も柄にもなく、女子のこと、恋愛経験のことなど、書いてみたくなった。ブログでは、一度も書いたことがないはずだが、考え直すこともなく、僕と言えども、女子のことは絶えず頭にあった。男の頭の中には絶えず女がいる、当然だ。

 ただし、後になってわかったことだが、僕は17、8のころ、本当に情熱的な恋をし、数年で別れたが、濃密な時間をすごした。だから、それ以後、人並みに女子とお付き合いはしたが、全部、おまけのようなものだったと思う。何を勘違いしたのか、結婚までして、案の定離婚してしまった。


                
 17,8の年齢で、それも同世代の恋、関係というのは、よほど女あしらいに長けたプレイボーイならともかく、基本的に男子は女子にかなわない。もちろん男子なりの見栄もプライドもあるから、リードしようとするが、そして男子の方がリードしているように見えたりするのだが、実際は女子の方がイニシアティブを握っている。男子は手のひらの上で踊っているようなものだ。知識をひけらかしたり、力を見せようとしたり、逆に優しさを出そうとしたり、いすれにしても、女子からはみんな透けて見えている。大体女は、特に美しい女子は、ほめられたら、何かを疑うか、それなりに慎重になるが、男はおだてられれば、単純に調子に乗る。女子の思い通りと言っていい。
 あとになってみれば、僕の場合もそんな幼い恋であった。それでも、彼女は一緒に銀座を歩けば、振り返られるほどの美形だったので、買い物などに歩くのは、男として何か誇らしい気分もあり、楽しいものだった。また、そこは10代後半のことゆえ、同じ本を読み、一緒に音楽を聴き、毎日のように会って会話するのは本当に楽しかった。同じものが好きになり、同じものが嫌いになった。言った通り、女子の方が早く「大人」になっているから、こちらは、何か知識を与えているつもりになっていても、実際は教わることの方が多かった。
 僕は今でも、高校生や、10代のカップルを見ると、本当にほほえましく優しい気持ちになる。おい頑張れよ、と応援したくなる。まさに二度と帰らぬ青春である。思いっきりエンジョイすればいいと思う。最終的に実らぬ恋に終わっても、そんなことはどうでもいい。その瞬間が充実していれば、必ず人生にかけがえのない花をそえる。で、その時は女子の方が先に大人になっているが、通常、男子はその後、学校でも、就職先でも、とにかく他人にもまれ、必ず成長する。多くの場合、先に大人になった女子を追い抜いて、否応なく大人の男になっていく。そのとき、幼い恋を省みれば、必ず人生の糧になっているのに気づく。

 もう今は、僕にとって、女性は「風景」の一部でしかない。だが、ショーの「夏服を着た女たち」のように、お洒落で美しい女たちを見るのは気分のいいものだ。女性作家の恋愛小説を読むのも、同じように楽しいものだ。硬い本の合間に、そんな読書の楽しみがあっていい。

 



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姫岡玲冶逝く

2015. . 21
 また一人、安保ブント指導者が亡くなった。青木昌彦氏の話である。氏は、日本人初めてのノーベル経済学賞・最有力候補といわれていただけあって、亡くなったニュースは、各紙で大きく報じられていた。だが、彼が安保ブントの姫岡玲冶であることに触れていた新聞は少なかったようだ。僕が見た中では、少しあったが、ふれていても2行どまりだった。
 しかし、僕たちにとっては、何といっても「姫岡国独資」によって安保ブントの理論的支柱となった、島成郎とならぶブントの指導者としての、あの姫岡玲冶が亡くなったという受け止め方が大きい。

 現在、自民党の幹部たちが、強行採決した安保法制に対する反対運動を罵倒し、「昔はこんなものじゃなかった」などと訳知り顔で語る。嫌な時代になったものだ。だが、確かに、青木氏が理論的に支え、島氏によって指導されたブント・全学連による60年安保闘争は、「こんなものではない」大きな闘いであり、実際に内閣を打倒し、その後、自民党といえども気楽に「改憲」などといえなくなるだけの影響力を残したのも確かだ。全学連は何度かの国会突入を闘い、国会を連日取り囲むデモ隊も大規模で、一日50万人を超える動員であった。この経験は、60年代後半の闘争にあって神話のように語られたものである。これらを通底する、「日本の新左翼」の原点ともなった理論的背景を初めに提出したのが、この姫岡氏であった。

 彼は当時、何を打ち出したのか。大雑把にまとめると3つのことを言っている。ひとつは、当時のソ連邦が、その官僚支配によって、「労働者国家」などではくなっていたこと。これは「反スターリン主義」として、痩せても枯れても新左翼が新左翼と称する一番のアイデンティティとなる。例えば当時の日本共産党が、「アメリカの核実験は『悪い』核実験、ソ連の核実験は『良い』核実験」などとしたのに対し、はっきりとソ連の核実験にも反対するというスタンスをとったのだ。今なら当然のこんなことも当時は画期的であった。ふたつめは、日本の帝国主義が「国家独占資本主義」としてその地歩を固め、対米従属でなく、発展した資本主義としての日本帝国主義の自立を主張したことである。これも、安保闘争を「反米愛国」の闘いとした旧左翼に対して、正面から日帝打倒、岸内閣打倒をかかげた、画期的なものであった。「アメリカの戦争に巻き込まれる」どころではなく、日本が「改憲」を通じて「戦争を出来る国」になることを阻止する闘いとしたわけである。さて、三つ目だが、そうした国家独占資本主義に至った、発達した日本の資本主義、日本帝国主義を打倒する闘いは、改良主義や、当時流行した「構造改革」などではなく、直接政権を奪取する暴力革命でなければならない、と堂々と主張した。
 現在に至っては、3つ目の「暴力革命」は間違いだが、先の2つの主張は、実に正解であったことが言えるだろう。当時、他党派から、「宇野経済学と対馬ソ連論とハッタリとの混血」と揶揄された、まさに3つの主張だ。しかし当時、暴力革命は「ハッタリ」で語られたのではない。だからこそ、連日国会を取り巻くデモ隊と群衆におびえた岸は自衛隊の出動まで要請し、弟の佐藤とともに「革命の悪夢」に悩まされた。従って、繰り返すが、岸退陣後、自民党は「再軍備」とか「改憲」とか気楽に語れなくなったのである。

 周知のように、この60年安保闘争のあと、60年代後半に、日本の新左翼は「もうひとつの」もっと大きなピークを迎える。だが、残念ながら60年の闘いのような社会的影響力を持つことはなかった。その大きな理由は、当事者には失礼ながら、姫岡氏のような先見的な理論的支柱に欠け、また、一次ブントのようなスケールの大きな政治指導者を欠いたことであろうと僕は思っている。だから、また惜しい人が亡くなったという思いを一層強く持つわけだ。

 いずれにせよ、現在、信じられないほどの、幼稚な政権の暴力的ともいえる運営によって、安保法制が、そして解釈改憲が進行している中にあって、民主党をはじめとする国会内野党が、これまた信じられないくらい、これを本気で「廃案」にしようとする動きを示さない。(本来なら、あるいは本気なら、あそこまでやられたら、反対派全員議員辞職するくらいの覚悟で闘うべき責任があると思うが、自党の拡大や自己保身ばかり図り、アリバイ的な動きばかり目につく。) 自民党の中では、「安倍は酷いが、野党のおかげで助かっている。」と語られているそうだ。姜尚中氏は、この国会を「消化試合」と呼んだ。さもありなんである。
 
 反原発デモも含め、国会前には今も若者から高齢者まで、多くの市民が繰り出している。僕も数回だが出かけて行った。そのエネルギーは強い。確かに「昔とは違う」が、何も敗北した昔のスタイルを踏襲する必要などない。新しい社会運動は確実に芽生えている。政権も、野党議員も、社会運動を舐めない方が良い。闘いはまだまだこれからだ。



 

 
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