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r > g , その後

2015. . 06
 トマ・ピケティの日本での人気はたいへんなものだった。著書「21世紀の資本」は、6,000円近いぶ厚い本であるのに飛ぶように売れて版を重ね、書店ではどこも前面に大きく平積みにされていた。シンポジウムや東大での講義は申し込みが殺到し、抽選に漏れる人が数多く、クレームも続出した。TVでは、パリでの講義が連続して放映され、好評で再放送までされた。
 評論家や経済学者はもちろんのこと、政治家が利用しようとさえした。人気に便乗しようとしたのだろう。もちろん「批判」もあった。だが、大概は「資産課税など無理だ」とか、政策提案に対する不利益からくるものか、単なるケチつけに終わっていた。それはそうだ。あれだけのデータと取り組んで例証しているのだから、「何が書いていないか」をあげつらったり、「立場の違い」を言ってみたりするのは、ほとんど自分の方が馬鹿にされるのがオチということになる。

 ひどい「批判」のひとつは、これが(本が売れたのが、)一過性の「ブーム」乃至は、「ファッション」であって、昔、左翼かぶれの青年が読みもしない「資本論」を「持って」いたのと同じだ などと言う者までがあった。可哀そうな人だと僕は思った。そういうことを言う人はおそらく読書の習慣自体がないのだ。マルクス・エンゲルスの「資本論」は19世紀の古典であり、述語もそれなりに難解である。一定のマルクス理解が前提である。それに対して「21世紀の資本」は、300年におよぶデータで例証する、今、現在の著作である。著者は来日し、図表や、脚注をインターネットで見ることまでできる。文章も、(翻訳も、鼻につくくらい)平易だ。別に「ファッション」として「持つ」必要などなく、文字通り、ファッションとしてでも、例えば村上春樹を読むように読むことも可能なのだ。普通の高校生くらいの読解力があれば充分読めるはずだ。もっとも、高校生であれば、r > g の現実に対する感覚、富の格差、そこからくる「つらさ」や、実際の経済活動に対する感覚が働く大人と違うので、読書のモチベーションは多少落ちるかもしれない。だが、多少なりとも、社会に対する問題意識や、本を読み通していく集中力や習慣があればもちろん読めない本ではない。

 
 僕が気が付いたのは、本来、ピケティのテーマや提案に敏感でなければいけないはずの野党政治家や左翼的評論家、経済学者などよりも、好き嫌いは別として、(僕はTVに映るだけで腹が立つくらい嫌いだが)、例えば竹中平蔵とか、高橋洋一とか、日頃「新自由主義者」云々とレッテル貼りされている人々のほうが、正確にピケティを読んで、理解しているということである。考えてみれば当たり前の話なのかもしれない。r > g は、例えば投資家にとっては至極当然な話で、「何をいまさら」と言うくらいの話だろう。だからこそ自分たちは「カネでカネを儲ける」のを身過ぎ世過ぎにしているのだと。そして竹中のようなその周りに巣食うものたちもそれは「常識」なのだろうから。「21世紀の資本」は、政策提案はともかく、彼らにとって実にわかりやすい本だったに相違ない。そのあたり、「格差」問題一般で、政治的にその人気を利用しようとした民主党の人間などは、その発言や取り上げ方を聞いていると、まず何より「本当に読んだのか?」という疑問がわいてくるくらいであった。また、ピケティが「もっともやってはいけない」政策としている緊縮財政や、消費税増税にふれるのを避け、一般的な「格差」問題など語ろうとしても、話が浅はかになるだけなのである。これは、メディアに登場する彼らの言説を聴いていて気恥ずかしくなるくらいであった。むしろ、竹中の言う通り、日本には、ピケティのいう「資産課税」にあたる高い相続税がある、とか、固定資産税がある とかいう議論のほうが、日本での政策提案として具体性を持って聞こえてくるくらいであった。

 つい先日、「格差」問題についての討論ということで、TVで竹中平蔵と「民主党ブレーン」と紹介された山口二郎が向かい合っていた。竹中が数字やデータをもっともらしく出して語るのに対して、山口は感情的にしか発言しない。経済の話、「格差」の話をしなければいけないのに「印象」の世界である。
 で、聞き捨てならない発言は山口の方だった。20世紀には、経済成長があり、同時に「分配」がしっかり機能していた。例えば「春闘」をはじめとする組織労働者らと経営者側の分配によって社会の公平性が担保されていたというのである。21世紀になると、そうした分配が機能しなくなり「格差」が拡大した。従って改めて「分配」を、というわけだ。
 バカもいい加減にしてほしい。
 僕は、若いころ、(70年代半ばだ。) 仲間たちとともに、当時「臨時工」と呼ばれた、非正規労働者の権利闘争の応援で、さる大企業の大工場へ応援に行ったことがある。ビラまきをしている僕たちに、暴力的に襲いかかってきたのは、警察でも、経営者側・職制でもなく、「満額回答」のゼッケンをつけ、「労働組合」のヘルメットをかぶった組織労働者の集団だった。
 彼らこそが、現在の民主党の母体を形成している。つまり、当時は、一方で「弱者救済」を言葉として語り、「強者」であることを任じる自分たちは「満額回答」という「分配」を得て、弱者を切り捨て、現在もまた「非正規労働者」を調整に利用しつつ、「正規」の自分たちの既得権を守るという構造なのだ。「非正規労働者」を言葉として利用するだけで、実際には、自分たちの既得権を守り抜くために調整機能を働かせる、というわけだ。山口の言う20世紀の「分配」とはこうしたものである。21世紀の現在も「非正規労働者」の問題として一貫して続く彼らの既得権防衛なのである。

 「格差」、「非正規労働」、そして「貧困」、これらの言葉だけをもてあそんで、既得権を守り、非正規労働者を切り捨てることによって自らだけが「分配」に預かろうとする、こんな卑しい根性の政治路線を断じて許してはならない。これだから民主党は、消費税増税、集団的自衛権行使容認、辺野古基地移転容認、改憲、そして原発再稼働に至るまで自民党の補完勢力としてのスタンスしかとることが出来ないのだ。それは、本当に「働く階級」に敵対する政治集団である。

 「ファッション」でもかまわないから、流行のピケティくらい本気で読め! 人間らしく過去をみつめ、「反省」し、考え直せ。















 
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