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10・8山﨑博昭プロジェクト

2014. . 08
 今日は10月8日。このブログを書き始めた年の10月8日にも、同じように書き出したと憶えている。1967年の10.8からもうじき50年、「あと3年」である。この「50周年」にむけて、「10.8山崎博昭プロジェクト」がはじまり、先日の土曜日、講演・懇親会に参加してきた。直接関係者、つまり10.8羽田闘争参加者や、発起人の方々よりだいぶ若い僕が、プロジェクトを知るやすぐに申し込んで参加したのは、もちろんこの「10.8」に特別な思い入れがあるからである。

 67年の10月8日。日曜日のその日、佐藤栄作総理は南ベトナム訪問に出発しようとしていた。これは日本の全面的な参戦国化、ベトナム戦争の一方の極への直接的な加担を意味していた。当然これに反対する勢力が存在した。なかでも、3派全学連は全国動員で前日から拠点大学に泊まり込み、羽田現地実力闘争によるこの訪ベト阻止闘争を組織した。この後の新左翼運動のいわば起点になる闘いであった。空港に至る3つの橋のうえで機動隊と激突した部隊は、阻止線を突破し、放水車の屋根をこえ、激しい闘いを展開したが当然厳しい弾圧にあい、京大1年生の山崎博昭さんが権力の手によって撲殺された。

                                              10-8-03.jpg 

                                

 翌日の新聞は、はたして「暴徒、暴力学生キャンペーン」であった。(「過激派」という言葉はまだなかった。) 山崎さんの死因も、学生が「乗っ取った」警察車両による「轢死」と発表された。これは、今回のプロジェクトでも、当時の病院で本人を見たご家族も、はじめに対面した弁護士も、みな否定している、根拠のない権力の「でっち上げ」だった。

 さて、僕はと言えば、まだ中学校から高校へ上がったばかりの秋のことであった。中学時代、ボーイスカウトをやり、音楽が好きでラジオに熱中したり、読書は好きだったが、小説か、岩波新書といえば「自由と規律」くらい、といった、「ノンポリ」の,高校へ進学したばかりの男子、1年生にとって、この出来事のインパクトは大きかった。そして、当初は新聞報道そのままに、「大学生でもずいぶん乱暴なことをするものだ」くらいに思ったものである。
 ただし、僕は高校の「社会部」に入っていた。そして、その部室では、上級生たちととともに、マスコミとは全く違った討論が展開されていたのだった。そもそも、翌年部長になる2年生のKは羽田現地まで行っていた。「気が付いたら機動隊の前面に出ていた。怖かった。」と、その体験を話したものだ。ベトナム参戦国化に反対するのも、「空港へ一人でも出られれば訪ベトを阻止できる」のだから、実力闘争も当然、という話にそこではなっていたのだ。で、社会部としては、「暴力学生キャンペーン」を張った新聞各紙を買い集め、保管する、という決定がなされた。奇妙かもしれないが、要は、後々、ベトナム反戦ということで、マスコミが、この闘いについて「評価」をしはじめるだろうと、その時、「あなた方はこんな記事を書いたではないか!」と告発する というわけである。今にして思うと、ジャーナリズムに関してまだ牧歌的というか、非常にナイーブに実は信頼していたということがわかる。

 ともあれ、僕自身は、この「ベトナム反戦闘争」にはすっかり感化されてしまった。死者まで出して闘った全学連の大学生にシンパシーすら感じるようになった。よく言えば「意気に感じ」、やがて高校生運動の一端に参加するようになる。たいしたことはしていないのだが、例えば、その後、クラスの半分以上が、ベ平連の売り出した「殺すな」と書かれた反戦バッジをつけて授業に出るようになった。僕は先輩社会部員から「バッジブローカー」とからかわれた。とにかく大量にばらまいたのである。

 10.8は、多くの同世代の、あるいは少し上の世代の人々と同じように、僕の人生観・社会観を決定的に変える転機となった。その後、つき合う友人から、読む本から、すべてが大きく変わっていったのである。何より、多少なりとも、デモや集会に行ったりして、運動に参加するようになってから、自分の高校生活そのものが変わった。運動に関わるときは、当然緊張もあったが、明るくなり、充実感をおぼえたものだ。10代らしい「粋がり」もあったし、後になれば恥ずかしいくらいの言動も多々あったと思う。が、もし高校生運動がなかったら、と逆に考えてみれば、どんなにかつまらない人生だっただろうと今でも思う。

 そんなわけで、この10.8プロジェクトには1も2もなく感動し、また、東大闘争以来、久しぶりに、山本義隆氏が「講演」する ということで、会場の「きゅりあん」へ出かけた。


                                            10.8、その2



 当時の映像スライドからはじまり、ドキュメント映画「現認報告書」を観た。マスコミの「暴力学生キャンペーン」の嘘、山崎さんの死因に関する権力、マスコミの嘘がよくわかる。モノクロの迫力のある映像は、闘いの実相をよくとらえていた。権力を前にした学生リーダーのアジテーションは悲壮なものだが、後の「全共闘」のものとは一味もふた味も違う内容の濃いものであった。
 発起人を代表して兄・山﨑健夫氏からの話、博昭氏の最後のお母さんとの対話、何より遺体との対面、ヘルメットなしで頭部を集中的に打たれ、警察発表のタイヤ痕などまったくなかったという証言などが続いた。これは初めに入った病院の牧田院長も証言している。
 司会にあたった佐々木幹朗氏、詩人です、と自己紹介。そう、彼の「死者の鞭」はみんなで読んだものだ。また、僕は68年当時、「展望」に載った彼のエッセイが忘れられない。その一節、高校の社研の部室に、それだけは消されずにずっと残されていた落書きがあったという。「遠くまで行くんだ・・・」。彼は山崎博昭さんと大手前高校社研の活動をしていたのだ。そして、同じく、発起人の三田誠広氏、彼も大手前高校社研だ。元議員の辻恵氏のあいさつ、賛同人、賛同金の依頼が続く。僕も、少し余裕が出来たらすぐ出そうと思う。弁護士の小長井氏は当日、病院で医師以外ではじめて遺体をみたひとだが、「脳内出血以外の傷は一切なかった」と断言した。僕たちにはおなじみだった救援連絡センターを作られた水戸喜世子氏、同じセンターの山中氏などの挨拶が続いた。

 そして、いよいよ、このために来た人も多かったと思うが、山本義隆氏が登場した。72歳。白いひげをはやしていた。が、まっすぐ背筋を伸ばした姿勢、知的な眼と話し方は昔のまま。60年、東大入学、その4月はもう安保闘争で、駒場は全学ストだったそうだ。26日は議事堂へ。僕たちの言う4.26闘争である。成績優秀で、物理学、数学の勉強に集中するはずの学生が否応なく政治の波に入ってゆく。ときの東大でのアジテーターは西部邁であったそうだ。
 さて、山本氏は、当時の安保阻止国民会議の、特に強行採決以降の盛り上がりを支えた「民主主義を守れ」という方針、乃至は共産党の対米従属論に対して、ブントー全学連の「日米新時代」、日本帝国主義自立論という分析の違いを話してくれたのだが、そのとき、岸が58年以来、ずっと、「潜在的核武装」を唱え、東海村を頻繁に訪れ、日本の「核武装」を、いわば対米外交のカードとして使おうとしていたのだ、と、ブントの「日帝自立」という分析の正しさを、いわば原発の問題から説明した。さすがだと感じたものだ。ともあれさらに、6.15、樺さんが亡くなり、6.18、自然承認。そのデモ隊の横を総評の宣伝カーが「10年たったらまた闘いましょう・・・」と言って通り過ぎる という、当時の現場の雰囲気をも伝えてくれた。岸はこうして「自立」路線をとろうとしたが、結局破綻し、辞任せざるを得なくなり、代わった池田は対米追従路線をとり、「カネ儲け」に集中することになる。「高度成長」などといわれるが、これも結局は朝鮮特需~ベトナム特需のおかげであった。日本の経済成長、それは一方で、物理学者の氏からみれば、「理工系ブーム」の次期と重なるのだが、こうした成長はすべて戦争、軍需とからんでいる。初めが明治維新のころ。2度目は戦中、この時期、東大に第2工学部が出来たそうだ。造船学部とも呼ばれ、「軍艦の神様」と呼ばれた男が学長にまでなる。そして、60年からの時期、東大理系の人数は一気に150人増え、原子力工学がさかんになる時代。これらが「高度成長」期と重なるわけだ。
 62年、大管法闘争があるが、これは当初、教授陣とも利害が一致する部分があったので、教授会、学生の共闘が成立したそうだ。ところが、11月、「銀杏並木集会」のときから事態が変わったという。他大学からも参加し安保以来の5,000人という大動員をやったら、けしからんということで処分者が出て、処分撤回闘争をやるとさらに2次処分が出るといった、「勝てない闘い」が組まれた。結局、教授会との共闘、乃至は「大学に自治」などという概念が、このころから問い直されて行かざるを得なかったというわけだ。
 そして、日韓闘争、ベトナム反戦闘争の時代になる。このとき、東大に「ベトナム反戦会議」ができ、山本氏も参加する。中心に所美津子さんがいたそうだが、「ベトナム反戦を主張する個人」の集まり としての「反戦会議」という この組織論がやがて、その後の東大闘争・全学「共闘会議」の組織論の基礎となる。67年、3月砂川闘争に参加。三派全学連プラス反戦青年委員会という動員構造はこのときからのものだそうだ。そして、このころ、半導体国際会議に米軍資金が導入されていたことが暴露され、日本物理学会は「軍事資金を入れない」という決議を出す運動をしていて、最終的に67年秋、決議を出すことに成功する。その1か月後の10.8であったそうである。
 山本氏はさらに、11.12の第2次羽田闘争(佐藤訪米阻止闘争)にふれ、その前日、11月11日、エスペランティストの由比忠之進さんが抗議の焼身自殺をしたこと、翌日の11月13日、ベ平連が空母イントレピットから脱走兵をスウェーデンに無事送ったこと を語り、当時の雰囲気を思い起こさせた。
 
 

 60年安保闘争時の、「戦争に巻き込まれる」という被害者意識から、ベトナム反戦運動はむしろ、61年~71年のベトナム特需による「高度成長」の中で、「日本が戦争に加担している」ことへの、「加害者側の」闘いへ変わっていった。(何しろ、当時、毎年10億ドル日本企業に米軍は資金提供したそうである。) アメリカの世界最高の軍事力に対して闘っているベトナム、墜落した飛行機のタイヤで作ったサンダルを履いて闘っている兵士、加害者側でなく、そちら側に立とうと皆が思ったのだ。

 そして、68年、もちろん東大闘争の話。当初、インターンといういわば「職能組合」的な闘争として始まった闘争が、処分撤回闘争にはじまり、秋には全学化する。結局、「その場にいなかった学生の処分」という理不尽な措置に対する説明が、なんと、「疑わしきは罰せず というのは東大学内では通用しない」と、法律を教えているはずの法学部長が言ってのける という信じられない状況、これに対して当然の教授会追求、「言っていることと、やることが違うじゃないか!」、そしてさらに、教授会の対応のひどさ によってどんどん闘争が拡大してゆく過程。このあたりはさすがに元東大全共闘議長の話fである。ひとつひとつ愉快でしかも説得力がある。なお、本当にそんなにひどかったのか とも思う。要は教授たち、よく出てくる丸山真男などの「ダブルスタンダード」に対する批判であった。

 さて、僕たちもその後の過程はよく知っているつもりだったが、全学スト、6.15、22安田講堂選挙、これは安田講堂解放=誰でも入れる講堂にしよう という闘争だった。なるほど。高校生の僕たちも、何度か行ったものだが、確かに入れてもらえた。スタインウェイがあったものだ。全共闘というのは、東大闘争では青医連プラス各党派(各学部代表)という組織であったこと、このあたりは当事者から聴くまでわからない。実際は党派対ノンセクトでかなりの確執があったこと、これはまあ想像できる。東大ではずっと「共闘会議」と呼んでいた。「全共闘」という呼称は日大からの輸入だった。ホントかいな。

 総じて、東大闘争、そして60年代の安保~ベトナム反戦闘争の流れは、ひとつには、「平和と民主主義を守れ」という戦後的意識から、制度としての民主主義が、秩序として現れるとき、少数者、マイノリティに対しては暴力にもなり、抑圧にもなることを暴露し、これと闘ったということ。もうひとつは日本の科学技術の進歩が、実際は軍需としっかりと結びついてきたこと。西欧の技術の恐ろしさを戦争で身に染みた薩長・明治政府以来、軍事技術と結びついてやっと発展してきたこと。この反省のうえにたった闘いであったこと。2つの意義を山本氏は語ったのである。
 
 
 山本義隆氏は、科学史家であり、優秀な物理学徒であり、そして、何といっても東大全共闘議長、さらに全国全共闘議長でもあった。彼の総括をおいて、他の人の話は次の次だろう。

 メモだけをみて書いたので、まとまりがないかもしれない。
 同行した親友はさらに詳細なメモをとっていたそうなので、ゆっくり確認して、また機会をみてまとまった文章を書いてみたい。

 「10.8山崎博昭プロジェクト」は、今回が、50周年まで「あと3年」、今後、来年「あと2年」、再来年「あと1年」と、続いていくそうだ。50周年は2017年。会場でも言われたが、くしくも、ロシア革命100周年でもある。 さて、毎年秋の大きな楽しみが出来た。
 
 それにしても、山崎博昭さんのいた、(京都大学入学前) 大手前高校 というのは、すごい高校だ。 社研に岩脇正人(反戦高協~火急)、佐々木幹朗、三田誠広、そして山崎さんたちがいて、今回の賛同人にもたくさんの人が名前を連ねている。その先輩格が、山本義隆氏だ。高校時代というのは、先ほど自分のことを書いたが、世界観、社会観が形成され、人生の大きな転機になる時期だ。良い高校で、良い友人に恵まれたひとは幸せである。

 このプロジェクトの意義の通り、僕たちは山崎博昭さんの名前を絶対に忘れない。10.8羽田の闘いも忘れられることはない。日本での、60年代後半、ベトナム反戦の闘いは、永久に歴史に刻みこまれる。


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