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森達也氏への違和感

2013. . 11
 「『自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか』と叫ぶ人に訊きたい―正義という共同幻想がもたらす本当の危機」。すごく長いタイトルの本を読んだ。権力への怒り、批判に満ちていて良書だと思った。だが、タイトルでわかる通り、本の中の著者の主張のかなりの部分は「死刑廃止論」と、また、それに対する反発への反批判である。僕はここにたいへん違和感を感じたので書いておきたいと思った。
 何より、「死刑廃止論」に対する反対論のレベルを意識的に、すごく低いものに、感情的な反発に落として引用したり取り上げたりして。そのうえで批判するという議論の方法が嫌である。
 タイトルにある、遺族感情を考えて死刑を残すべきという議論があることは僕も知っている。だが、あえて言うが、被害者本人(殺された当人)に比べれば、そのことはあくまでも「サブ」だ。また、「被害者の人権はどうなるのか?」という「感情的な」発言を引用して、被害者の人権と加害者の人権が「対立するものではない」などと、被害者加害者一般の話にすりかえてしまっている。これでは理屈になっていない。

 
 
 僕は、一般論としては、いずれは日本でも死刑は廃止されるべきだと思っている。だが、今現在、世論の9割は死刑廃止を望まないという。そして、僕自身も今、死刑廃止を望んでなどいない。冤罪は困るが、それは別の問題だ。「疑わしきは被告人の有利に」の原則を貫いてもらわねばならない。それは死刑に値する犯罪以外でも同じだ。
 
 例えば、僕自身が、見ず知らずの、恨みも何もないはずの人間に、僕のなけなしの金を奪うために、何か残虐な方法で殺されたとしたら、僕はその犯人は死刑にしてほしいと思っている。これはもちろん「遺族感情」でも「仇討」でもない。本人の問題だ。殺されたものはもう何も言えず、何も出来ないのだ。決定的に「人権」を奪われたのである。同様に、僕は何の恨みもない人間を殺したりするつもりはない。誰もみな不当に殺されたりする理由などない。生き、生活することは最低限の人権である。
 死刑は別に「遺族感情」をケアするためにあるのではない。その「仇討」のためにあるわけでもない。 まずは犯した罪に対する刑なのだ。死刑の方法が残酷だというならその方法を変えるべきだ。
 
 

 死刑にならなかったとする。無期刑になっても、7~8年で社会復帰するそうだ。僕は、狭量なのだろうか? 僕を殺した人間が7,8年拘束されただけですむとしたら、僕はそんなことは許しがたいし納得できない。

 「遺族感情」ともうひとつ、廃止論者がよくいうせりふに「抑止力がない」というのもある。これも僕に言わせれば議論のすり替えだ。抑止力というのは当然殺人をしないようにする抑止力のことであろう。だが、これから起こるかもしれない殺人事件に対して抑止力があろうがなかろうが、殺人を犯した人間を死刑にするかどうかとは関係ない。すでに人が殺されているのだ。

 僕自身に、そして日本の社会に、こうした残虐な犯罪に対して処罰感情が死刑という形である以上、死刑は廃止されるべきではない。日本とEUとでははっきり言って民度が違うのだ。
 日本がEUなみに成熟した市民社会になり、民主主義が本物になったら、そのときに死刑を廃止したらよいと考える。

 はびこる排外主義への警鐘。安倍への批判。原発を拡大してしまったことへの反省などなど、考えさせられ、大部分は共感するところの多い本ではあった。そのうえで、死刑に対する著者の議論にだけ、強烈な違和感をおぼえたものである。



 あたりまえだが、別に死刑にしなくてもいいから、この本にも出てくる、我々の年金、税金を遣い込んで、平気な顔をして、増税で穴埋めし、役人天国を作っている官僚たち、その利権にまみれた汚職政治家たちには、(今までは許されてきたが)、まずカネを返させ、しっかり、実刑に付してもらわねば困ると、僕は思っている。





 





 
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