スポンサーサイト

--. . --
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

清水昶

2011. . 21
 

  荒れ草だけの口をひらき
  歯なみだけが妙に清潔な一九六七年初夏
  こわれやすい陶器で熱い沈黙をまえに
  怒りにしまる腰を裂きえぬあなたに
  なにをあげよう
  地下室に墜ちている蝶
  薄暗い納屋でひえている水のような愛

  
  ここは純喫茶男爵だから
  美しい観念の髭をはやしてわたしは
  のど首をつたう欲望をねくたいでしめ
  にがい精神をまっすぐ胸中に垂らしている

  
  なにをあげよう
  湧きでる唾液にやわらかな言葉は溶け
  わずかに裂けるあなたの語り口に透ける夜街ふかく
  ゆっくり醒めるわたしは
  夢の中心にまで踏み迷い
  まっさおな銃口を朝にひらいた銃座にうずくまり
  いっせいに顔をあげる日まわりの花芯を狙っている
  なにをあげよう
  
  待ち焦がれるのどをおさえ
  かがやく飢餓がたちあがる夜
  銃声は遠く臓腑に響き
  みだれちる死に花のなか
  つめたい汗光る首すじを
  男爵のようにたてるわたしは
  かかえきれぬ熟れに責めぐあなたの
  両の乳房のあいだでするどく割れる悲鳴を
  聞く

           『男爵』清水昶(「少年」より)

              


 
 


 それはとても美しい詩集だった。中村宏の装丁と挿画、白い表紙、出版したのは永井出版企画。この永井さんという方はとても凝った人で、「芸術・国家論集」というリトルマガジンを4号まで出した。
 1969年も終わりごろだったと思う。この詩集「少年」(清水昶)を、僕は当時のガールフレンドに教えられた。手にとって粗末な函から美しい装丁の本体を抜き、ページを開き、詩の言葉の美しさ、清水昶特有の磨きぬかれた言葉、独特なリズムを生み出す改行などに素直に感動した。後に自分でも1冊買い求めたほどだ。この詩集は初版はいくらもなかったらしく、数年も経たないうち、古書店では何千円にも価格が跳ね上がっていた。
 僕は、他の読者も同じようだったと思うが、彼の美しい詩、その言葉に圧倒され、若かったのだろう、自分の文章に引用したりした。
 ただ、その後、70年代も半ばを過ぎ、こちらがわからなくなったのか、彼の方が変わりすぎたのか、とにかく、氏の書くもの、エッセイも評論も僕には退屈に思えるようになってしまった。詩ではなく、俳句を書かれるようになって、その思いはますます強くなった。出合った頃の言葉の美しさ、鮮烈さはもう無かった。
 やはり、清水昶は「少年」だなあ、それから「朝の道」。特に「少年」は、何と言っても1960年代後半のあの時代のバックグラウンドなくしては生れなかっただろうと思った。僕は、1940年生まれで同志社大出身の彼自身がどのくらい新左翼運動にコミットしたかは知らない。エッセイ等の中で、デモの帰りに京都のジャズ喫茶でひとときを過ごしたりするくだりがあるので、また、関西の社学同にいたという話も聞いたので、まったく関係ないということは勿論無かっただろう。それに何よりも詩を読めば、時代背景が浮かび上がってくる。当時、やはり「バリケードの中から生れた」といわれた福島泰樹の短歌と同じように、一部の活動家によく知られ、愛された詩であった。やはり僕にとってはあの時代ならではの詩人だったのかもしれない。
 そんなわけで、その貴重な詩集も手放してしまった。「少年」、「朝の道」を含めた詩集の詩やエッセイを収録した現代詩文庫の方はもちろんとってあるが。

 その清水昶氏が5月30日に亡くなったという。
 合掌。
 ニュースに接して、当時の、いろいろなことを思い出した。詩も読み返した。鮮烈な言葉。「少年」や「朝の道」にある詩はいまだに輝きを失っていない。書かれた言葉は齢をとらない。清水昶は永遠の「少年」である。








スポンサーサイト

村上春樹 バルセロナ・スピーチ

2011. . 13
 村上春樹が、「カタルーニャ国際賞」を受賞し、日本語でスピーチしたそうだ。僕はこのニュースを夜のTVでみた。村上春樹がスピーチするのをTVに映させることは珍しい。今までなかったことだと思う。また、彼は海外では基本的に英語でスピーチしてきた。だが今回は日本語であった。
 
 内容はもう知っている人も多いと思うが、原発事故について、営利に走った東電や、「効率」に流され、原爆の被害にあったにもかかわらず「核」に対してノーを言わなかった日本、乃至は日本人に対する怒りに満ちた批判と自責の念である。僕はネットで全文を読んでみて立派なスピーチだと思った。
 「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませんから」という広島の原爆死没者慰霊碑の言葉にもふれ、核という力の前で、「その力の脅威にさらされているという点においては、我々はすべて被害者でありますし、その力を引き出したという点においては、我々はすべて加害者でもあります。」と語っている。
 
 「そして原爆投下から66年が経過した今、福島第一発電所は、3ヶ月以上にわたって放射能をまき散らし、周辺の土壌や海や空気を汚染し続けています。それをいつどのようにして止められるのか、まだ誰にもわかっていません。これは我々日本人が歴史上体験する、2度目の大きな核の被害ですが、今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです。
 何故そんなことになったのか?戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?・・・」

 「電力会社は莫大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。
 そして気が着いた時には、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国の日本が、世界で3番目に原発の多い国になっていたのです。
 そうなるともうあともどりは出来ません。既成事実がつくられてしまったわけです。原子力発電に危惧を抱く抱く人々に対しては『じゃあなたは電気が足りなくてもいいんですね』という脅しのような質問が向けられます。」

 「・・・何人かの専門家は、かつて同じ規模の大津波がこの地方を襲ったことを指摘し、安全基準の見直しを求めていたのですが、電力会社はそれを真剣には取り上げなかった。なぜなら、何百年かに一度あるかないかという大津波のために、大金を投資するのは、営利企業の歓迎するところではなかったからです。

 また原子力発電所の安全対策を厳しく管理するべき政府も、原子力政策を推し進めるために、その安全基準のレベルを下げていた節が見受けられます。」

 彼の怒り、批判がよくわかる。
 日本人は「非現実的な夢想家」といわれようと、核に対してはノーを言い続け、世界にメッセージを発するべきだと、きっぱりと発言したのだ。
 冒頭書いたように、今回彼は珍しくTVに向かってスピーチした。それも日本語で。つまりこれは、まずは我々日本人に向けたメッセージであり、日本人としての、全世界に対する自己批判なのだ。これはまた、今回の原発事故を「原爆犠牲者への裏切り」であるとした大江健三郎のメッセージにも通じている。そういえばどちらも海外のメディアでは大きく取り上げられるが日本ではほとんど黙殺されている。

 
 さて、TVでこのニュースが流れた後、寺島実郎という商社マンあがりの評論家が「私は村上さんとは立場が違いまして・・・」とやった。いわく、核を平和利用だけしているのは日本だけだ、原発の安全な管理という技術をもって世界に貢献するべきだ、などと頓珍漢なことをくどくどと述べたのである。さすがに古舘アナが、「お言葉を返すようですが・・・」と、福島の事故の処理も満足に出来ない「管理」など海外が信用すると思うか?と切り返した。そもそも「安全管理」が出来ていないから、また「安全管理」よりもコストダウンを優先させたから、「効率」を優先させたから起こった事故ではなかったのか、と。村上春樹や古舘アナのほうが圧倒的に正しい。「カネなのか、命なのか、僕はそう問いかけられたと思います。」と古舘は結んだ。正直な反応だろう。だいたい、寺島某がどれほどのものか僕は知らないが、商社マンあがりの評論家風情が、あえていうが、世界中に愛読者を持つ村上春樹氏と「立場が違うが・・・」などと、背伸びして同じレベルに立とうとすること自体が僕には滑稽に見える。
 日頃「リベラル」を装ったような言説を用い、一時期、鳩山のブレーンなどといわれたこの男の、薄っぺらな正体がみえてしまった一幕であった。


 何はともあれ、世界に、そして当然日本の読者にも影響力のある村上春樹のスピーチである。2年前のイスラエルでの「壁と卵」のスピーチとともに、大いに意義のあるスピーチであった。歓迎したい。









上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。