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今すぐすべての原発の停止を

2011. . 25
 九州への出張から帰ってきても、ここのところずっとブログをつけるのをやめていた。言うまでもないが、今回の東日本大地震、被災された人々を思い、僕が雑文を書いて発信するのも気が引けたのである。自分の無力は痛感しているが、ただ、1人でも多くの人命が救われるように願うものである。

 こんなとき、被災された人々はもちろんだが、被災の現場で人命救出や復旧のために努力している人々も大変だと思う。皆が結束して、一致団結して行動しなければならない。
 だから、TVなどで、さかしらげに「批判的」言辞を繰り広げている人間には本当に腹が立つ。こんなとき、リーダーの悪口など言っていてどうするのだ。まして、日頃から税金で飯を食っていながら自分たちのリーダーの「リーダーシップ」など論評している場合か。ここは足を引っ張るのではなく、リーダーのもとに結束し、協力してあらゆる努力を傾注するべきであろう。
僕自身も、何度もブログに書いてきたとおり、現在の菅にも枝野にも普段から不満はある。だが、この事態にあたって、どこかから「理想的なリーダー」を連れてくることなど出来ないのだ。こういうときはぶつぶつ文句を言うより先に「今、現にいる」リーダーに協力するべきである。ビジネスでも、何らかの社会運動でもおよそ「リーダー」を経験したものならすぐわかるはずだ。そしてまた役立たずの「不満分子」というのも必ず現れるものだが、こういうときにそんなものにかまけていたら全員がより一層の危機に陥ることになる。僕は菅も枝野もよく頑張っていると思う。日頃の批判は今は忘れる。それでいい。だいたいこれが麻生や鳩山だったらどうなっていたことか、考えるのも恐ろしい気がする。

 ただし、どうしても書いておかねばと思ってPCにむかっている。タイトルにした原発の話である。本日、朝日新聞は今回の福島原発の事故が、国際評価尺度で大事故にあたる「レベル6」と発表した。米スリーマイル島事故(レベル5)を上回り、チェルノブイリ原発事故に匹敵する土壌汚染も見つかっている。周辺の土地は長期間使えなくなる可能性もあるとの事。
 このくらいのことは海外はずっと早く報道し、また敏感であった。本日、EUは今後日本からの輸入食品の放射能検査を強化すると発表した。
 
 今回の地震、津波は天災であるが、この原発事故は明らかに人災である。「原発推進派」は、反対を踏み潰し、「絶対安全」と、「想定される最大級の地震よりも大きい地震がきても安全」と言ってきたのだ。実際に津波による事故が起こったら「想定以上であった」などという、こんな無責任で犯罪的な言い分がまかり通っていいはずがない。数日前の東京新聞によれば、今回の福島原発建設にあたって、東芝の専門家が大津波を想定し、対策を提案していたにもかかわらず、東電側担当者は「そんな千年に一度のことにいちいち対応していられるか」と笑って踏み潰したと言う。つまり、「想定できなかった」のではない。彼らが意図的に「想定しなかった」のである。これは、今回、郡山市長が激怒して会見したように、「廃炉を前提としたアメリカの事故対応」を政府・東電が断わった というのと同じ理屈、即ち、人命を含めた安全性よりも彼らの経済効率、カネ儲けを優先させたという事である。
 かつて「原子力発電所」に職を得ていたこともあるという徹底的な「原発推進派」でもある与謝野は今回もこの現実を前にしてなお「原発は重要エネルギー源であり、地震が多いのは運命」などと、絶対に許すべきでない発言をしている。

 原発を停止、というとすぐ、では電気はどうするのだ、と脅しのようなことを「原発推進派」はいう。既成事実として電力のかなりの部分を原子力発電が支える構造を作ってきてしまったのだろう。だが、真夏のピーク時でも火力・水力発電で充分OKというデータもあるという。原発が「効率がいい」といっても、大きな地震・津波が「想定」される日本ではハイリスクであることが明らかである。それを無理やり推し進めるのは人命などどうでもよくそれによって「カネ儲け」したい奴らだけである。これまで積極的に原発を推進してきた自民党の谷垣、同じく推進してきた民主党の枝野でさえも「今後のエネルギー政策の転換」と言わざるを得なくなってしまった。当然である。

 今すぐ、すべての原発の停止を。
悲惨な災害と事故の、尊い教訓ではないか。



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アニー・ジラルド

2011. . 02
                             アニー・ジラルド
 
 リビアで、カダフィがしぶとく権力に固執している。1人1日2,000ドルといわれる傭兵を動員して、自国民を6,000人以上も虐殺し、何としても、アラブ世界に広がる「革命」を押しつぶそうとしている。僕は先日のブログに「アラブ世界のベルリンの壁崩壊」と書いたが、カダフィはルーマニアの独裁者・チャウシェスクと同じ末路をたどるのが怖いのだろう。あのとき、蜂起した民衆はチャウシェスク夫妻を逮捕し、「宮殿」の裏で銃殺した。この銃殺を含む、駅構内での戦闘や放送局占拠などの多数の映像が「チャウシェスク政権の崩壊」としてNHKドキュメントとして後に放映された。

 インターネットで繋がった情報を共有し、かたやアラブ世界では若者たちの蜂起があり、わが国ではなんと入試のカンニングに使った若者が出た。今回明らかになり、こんなことが可能だったということは、これはたぶん氷山の一角なのだろう。実際はもっと多くのものが以前からやっていたことなのだろう。
 なんともいえない「日本的」な風景ではある。

 さて、そんな記事をみていたら、アニー・ジラルド死す、の報が載っていた。晩年はアルツハイマー病との闘いだったそうだ。79歳だった。もう彼女くらいの身近だった女優が「歴史」になってしまうわけだ。いやはや。

 もちろん沢山の名画に出演した女優であるが、僕に思い入れが強いのは、ヴィスコンティの「若者のすべて」(1960)とルルーッシュの「パリのめぐり逢い」 "Vivre pour vivre" (1967) である。まあ自分の年齢で妥当というところか。もちろん「若者のすべて」のほうは公開時には観ていない。TVとリバイバル上映(ヴィスコンティ特集)とで観たわけだ。
 アニー・ジラルドは、この「若者のすべて」で共演したレナート・サルヴァトーリと結婚し、死別するまで一緒に暮らす。そして、映画でこのサルヴァトーリの弟を演じて、ともにボクシングに挑戦するのが、当時若々しく登場したアラン・ドロンであった。ミラノのドゥオモの屋根の上でドロンとアニー・ジラルドが語り合うシーンは忘れられない。僕は90年代にミラノを何回か訪れるが、ドゥオモの屋根の上には簡単に出られることを知り、ああここがあのシーンの屋根かと納得したものだ。
 学生時代、雑誌編集のアルバイトをしたが、対談に出てもらった寺山修司が「家出」の話が好きで(笑)、この映画のことを話していたのも憶えている。まあ映画のほうは「家出」というよりも、一家全員でミラノに出てくる話だったが。
 
 そして、何といっても「パリのめぐり逢い」は、ルルーシュの「脂ののりきった」頃の名作だ。あの「男と女」の次の作品だから世間の期待も大きく、ルルーシュも気合が入っていたのだろう。ニュース・キャスター(こんな言葉はまだ当時なかったが) のイヴ・モンタン( 彼も今は亡い) の本妻がアニー・ジラルド、愛人がアメリカから来たモデルのキャンディス・バーゲン、という豪華な顔合わせ。モンタンは愛人と仲間と連れ立ってアフリカにサファリ・ツァーに行ったり、取材に行ったベトナムで行方不明になったりする。本妻のアニー・ジラルドとアムステルダムへ旅行するのだが、宿泊先の向かいのホテルに愛人のキャンディス・バーゲンも来てしまい、妻をごまかしながら2つのホテルを行ったりきたりする。帰りの寝台車で愛人が出来たことを告げ、本妻とは別れる。最後には、アニー・ジラルドが若い仲間と行ったスキー場まで会いに行き、若い集団に馴染めず、帰るとき、車のフロントグラスの雪をはらうと、助手席に彼女が座っている。ちなみに、愛人のキャンディス・バーゲンはアメリカに帰っている。この映画の、全部いわば「元の鞘」に戻るエンディングを、映画評論家・淀川長冶は「さすがに、フランスの、大人の映画の貫禄がございましたねえ・・・。」と評した。
 僕はルルーシュが好きなので、この映画も何度も観ていて、色々なシーンをよく憶えている。アニー・ジラルドは夫と別れた後、ウィンドウ・ディスプレイの仕事をしている。今で言うコーディネーターだ。そのウィンドウはサントノレのエルメス本店である。僕は映画を観たずっと後、75年に初めてパリへ行ってエルメスを訪れてその大きくて美しいディスプレイに感心したものだ。 (そもそも映画をはじめて観た頃、エルメスの何たるかも僕は知らなかった。それが世界の「一流ブランド」であることを知るのはちょっと後のことだ。確か伊丹十三の「ヨーロッパ退屈日記」を読んだ頃だった。ただ、パリへ行った時は買い物の目的を持って、手帳agendaが欲しくて訪れていたから、そのときは何とか知ってはいたのだろう。まあ当時は自分もまだまだ若かったわけだ。)  映画に登場する服の着こなしも皆良かった。当時、キャンディス・バーゲンが着こなすサンローランばかりが話題であったが、アニー・ジラルドのシックな装いも良かった。そして、男からしてみると、イヴ・モンタンの様々なカジュアルな着こなしが特に記憶に残る。タートルネックのセーターに重ねるツイードのジャケット、何度も出てくるゆったりしたシープスキンのコート、スエードのブルゾン (当時はジャンパーと言っていた。)、空港に着いてタラップを降りてくる時に着ていたトレンチコート、みな味があった。映画というのは、はじめの2度くらいはストーリーを追っている方が忙しいが、何度も観ていると、細かいシーンのひとつひとつがよく見えてきて楽しいものだ。僕は「男と女」とともにこの映画のサウンドトラックも車に積んであっていまだに車内でかけることがある。 

 アニー・ジラルドを映画で観てから40年以上経つ。60年代のこんな素晴らしい映画は今はもう出来ないのだろう。アニー・ジラルドのような小粋な女優ももう登場しないのだろうか。
 
                     (写真;パリ・マッチ)








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