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エジプト蜂起とその後

2011. . 18
  このブログで、僕はいち早くチュニジアの革命やエジプトの蜂起に触れた。その後はマスコミでも詳しく報道されるようになった。情報量にしても、そのスピードも、当たり前だがもうとても僕にはかなわない。だから2月になってから、報道をフォローするだけで、ここには何も書いてこなかった。ただし、どうも、僕の想像(これは実際に現地に行ったわけでもないし、誰かに聞いたわけでもないから仕方ないのだが)とは、ずいぶんと見当違いの報道になっていると思うので、僕なりの考えを少し書いておきたい。

 まず、今回の蜂起は何はともあれ「自然発生的」なものであっただろう。それはそうだっただろうとしかいいようがない。
ただし、ちょっと調べれば、この10年くらい、エジプトでは粘り強くストとデモを含む労働運動が続けられてきたことがわかる。そして近年では2006年、国営繊維工場での27,000人のストライキ、2008年4月には、前年2007年のスト、食糧暴動に続けて、ゼネストが呼びかけられている。このゼネストは拠点であったマハラ繊維工場を機動隊に逆占拠され、弾圧されて実現しなかったそうだが、このゼネスト予定日4月6日をとった「4月6日運動」が、今日の反政府運動の中で確固たる位置を占めているのは報道されている通りである。また、もともとエジプト労働組合総連合会(ETUF)というのが、単産、幹部をなんと政府が任命していたというほどの(民主党や連合顔負けの)「御用組合連合であり、権力の出先機関であったのに対して、今回、闘う労働者はエジプト独立労働組合連盟(EFIU) を新しく組織した。これは、例えば1月27日のデモやストに対して、既成の指導部ETUFがなんと反対の指示を出したりしたので、当然と言えば当然、多くの労働者の怒りを結集し、支持を集めた設立であったそうだ。
 100万人ともいわれる大デモンストレーションが組織されるバックグラウンドには必ずこうした労働運動と組織されたストライキがあるはずである。
 
 もうひとつ、インターネットの役割、これは大きいだろう。今回フェイスブック、ツイッターによる通信・連絡、ウィキリークス、ユーチューブによる「暴露」や情報共有の果たした役割は多くのマスコミが報道している通りだと思う。だが、前に書いたが、集会もデモも、皆がその現場へ実際に「行か」なければはじまらない。自宅で画面を観ていた訳ではないのだ。だいたい、収入が1日2ドル以下の若者たちにそれほどPCが普及しているとも思えない。だから、今回の蜂起を「フェイスブック革命」などというのは勘違いもはなはだしい。ネットはあくまでも「ツール」として力を発揮したのだろう。

 今回の一連の蜂起、チュニジアからエジプト、そして今、バハレーン、イエメン、リビアさらにウズベキスタンなどアジアにまで拡大しつつある決起に僕たちが学ぶべきは、「フェイスブックによる情報伝達」のほうではなく、働く階級の団結、ストライキの組織化であり、「現在の権力が絶対的なものではない」という信念であり、権力を打倒する具体的な行動である。


          バーレーン
 
 チュニジア革命は続いている。エジプトでも、まだまだ蜂起は始まったばかりである。現在ムバラク政権の閣僚たちや財界の要人がその不正な蓄財を検察に指摘され、逮捕されている。また、今回の蜂起による民間人の死者は400人以上とも発表された。この責任も追及されねばならない。だが、「ネットを眺めているだけ」では決して革命は出来ない。当たり前である。アメリカから「無血革命」と評されたこのエジプト蜂起でもこれだけの死者が出ているのだ。ちなみに、現在までの情報に寄れば、バハレーンでは一部に軍の混じった警察隊と反政府デモが衝突、すでに5人の死者、警察装甲車が首都を走り回っているそうだ。イエメンでは6,000人の対政府抗議デモと保安隊が衝突、リビアでは反政府抗議集会に警官隊が突入し、14名の死者を出している。
 アラブ世界の「ベルリンの壁崩壊」は始まったばかりだ。

               
 今回、これらアラブ世界で示されたように、現在の「情報化社会」にあっては、古臭い「暴力革命」も、同じようにクラシックな「議会の多数による革命」も、どちらももう不可能な時代になったのだろう。権力への対抗運動として組織されたデモやストライキが、弾圧に対して暴力を伴うことはあっても、それは抵抗上、防衛上の暴力だけである。「権力獲得の手段」としての「組織された暴力」などではない。一方、体制内化された全国的な労働組合も、すべてを選挙にだけ集約しようとする「議会主義」政党も、決定的な場面では政権側に付き、反権力の闘いに敵対して現れることも、まあ、よく言われてきたことだが、本当にはっきりと見えてしまった。

 だが、日本でも、アラブ世界同様の腐りきった権力と、官僚・財界の「独裁」がある以上、これに対抗する、働く階級の怒りを組織し、権力を打倒する闘いは可能だと僕は考えている。ウィキリークスでも、ユーチューブでも、何でも使って、もっともっと彼らの「悪事」を暴露しよう。フェイスブックでも、ツイッターでも、フルに使って情報を共有しよう。ただ、とにかく、働く階級は団結し、「街頭に出る」ことなくしては、権力を倒せない。今回の一連のニュースの教訓である。



                   (写真はロイター、バハレーン2月14日)








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年金は役人しかもらえない!?

2011. . 18
 今年も何とか無事に誕生日をむかえた。このブログのalexisは、2月17日の守護聖人・聖アレクシスからとっている。僕は別にカトリック信者でもないが、メールとかなんだとか、片仮名の名前が符牒として必要になってきて、誕生日の守護聖人の名を使うようにした。なかなか便利だ。
 
 さて、昨年の誕生日直後に、ブログで「年金定期便」にふれ、「何とかもらえそうだ」と書いたが、どうもとんでもないことがわかった。僕たちの世代に特有のことらしいのだが、60になったら「このくらいもらえますよ」と「年金定期便」に書かれている金額、(これは「報酬比例部分」にあたる。基礎年金も含めた全額は65からだ。)というのは、当然皆あてにしていたわけだが、実はもらえないそうだ。正確に言うと、「働くのを辞めて」はじめてもらえる金額だということだ。仕事を続け、収入がある場合、年金との和の上限が毎月28万円というのだから、そのくらいの給与、あるいはそれ以上の給与があれば年金は一切受け取れない。もちろん、こんなことは「年金定期便」には一行たりとも書いてはいない。60の誕生日の3ヶ月前、「裁定通知」が来て、年金事務所へ行って初めて、このとんでもない「ルール」を聞かされるのだ。同年代の知人は皆頭に来ているようだ。僕は地方でも同年代の知人たちから同じ話を聴いた。さらにおまけがある。この「28万円上限ルール」は厚生年金加入者だけに適用され、共済年金、つまり同じ条件で60になった役人たちには適用されない。彼らは厚生年金加入者の65歳時の上限47万円が60歳時から適用される、つまり、報酬比例部分はもともとそれ程多くないから、よほどの高給でない限り年金は満額支給され、減額されてもわずかだということだ。
 まあでたらめというか滅茶苦茶というか、同じに収めてきて60を迎えたとしても、ただ役人には支払い、民間には「やらないぞ」という年金になっているわけだ。
 これを、この話を先日TVでやったら、「ご存知でしたか?」と訊かれたコメンテーターたちは、薄ら笑いを浮かべながら「いやあ、知りませんでした。」と一様に答えていた。笑いごとではないだろうと思うのだが、所詮こんな連中には「他人事」なのだろう。日頃さんざん「役人叩き」をやっていながら、こうした具体的な問題を突きつけられると「言葉」を失い、権力に追従してゆくだけなのである。出ていた民主党の渡辺某も、司会者の「何とかしてください!」という突きつけに、ただ、「はあ、何とかします、一元化の問題ですね」などと、話を一般化して逃げていた。厚生年金と共済年金の「一元化」はいいが、そんなものは短く見積もっても20年以上かかる、長期的な仕事である。今の、現にある不正、不公平を正すのはやろうと思えばすぐ出来るはずだ。共済年金に適用される60歳からの上限47万というルールを厚生年金加入者にも適用すればいいだけだからだ。「一元化」一般の問題にすり替えていたら、この不公平に会っている世代はそのまま歳をとって不公平のまま通り過ぎてしまう。まったく民主党というのもいつのまにか役人たちに都合のいいだけの集団になってしまった。

 というわけで、まったくふざけた話なのだが、60を迎えたら受け取れると思っていた、またそういう「通知」を受けていた年金が、仕事を続けていたら実は受け取れないことが明らかになった。当然だが年金だけでは、それも60歳からの部分の年金だけでは生活などそもそも出来るはずはない。僕だけの問題ではない。同じ年代のものは、役人でない限り、皆同じ問題を抱えることになる。年金だけでは生活できないから、仕事を続ける。そうすると、あてにしていた、「定期便」で知らされていた年金はそもそも出ないのだ。

 こんなふざけた「ルール」を誰が勝手に決めたのか、僕に電話で「説明」した役所のオンナも言っていた、「働いて欲しいのか、引退して欲しいのか、まったくもってわけのわからない制度ですよね」と。クリアーにわかっていることがある。役人たちは「仕事を続け」てなおかつ年金がプラスとして支給され、民間人、つまり我々は、仕事を辞めて、「生活できない」年金だけを受け取るか、「仕事を続けて」年金のほうをあきらめるか2つに1つの選択を迫られるということである。
 
 まったく、記念すべき誕生日を過ぎて、こんな愚にもつかない話題をブログにしたくなかったが、どうにも腹の虫が収まらない。同世代の多くの「民間人」も同じはずである。




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