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チューリッヒ再び

2010. . 24
 またバーゼルでアーティストと会って仕事をした後、列車でチューリッヒに出て休みを過ごした。
 ここは本当に良い街である。文字通り山紫水明の自然に囲まれ、美しく清潔で、食べ物も美味しい。欧米でサクセスした人が晩年を此処で過ごすといった話をよく聞くがわかるような気がする。旅行者には見所も沢山ある。物価が高いのだけがつらいところだ。それにしてもドル安、ユーロ安となってもスイスフランというのは強い。 セレクトショップにキトン、ブリオーニなどが並んでいるが小売価格は東京と変わらないだろう。ある店のクリスマス・ディスプレイでは皮コートにヤコブ・コーエンのデニム、サントーニのスニーカーという「東京のような」コーディネートを見たが、どちらも東京の価格よりも高かった。

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 食事は地元スイス料理、フレンチ、イタリアン、みな美味しい。僕は東京でもパリでも、どこでも一度美味しいと思えば「何とかの一つ覚え」で何度も同じ店に通って食べる。ここでは、サヴォイ・ホテル側のCONTRAPUNTO というイタリアンとLumiere というフレンチレストランが気に入っていて、昼食、夕食ともまたまたお世話になる。生牡蠣、Coq au vin、など、シャンパン、ワインとともにリラックス出来て美味しい。


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 今回、思い立って、旧市街ニーダードルフシュトラッセの奥、シュピーゲル通り、ダダイストたちが集ったキャバレー・ヴォルテール跡の角を入って、レーニンが亡命中住んでいたアパート跡をたずねた。プレートが打ってある。 それにしても、訪れる観光客は誰もいないようだ。僕は2回行ったが、2回とも静かなものだった。僕がプレートを見上げて写真をとっているのを不思議そうに見ているスイス人らしき人がいて、「おお、レーニンだ・・」と声を上げた。あまり知られていない場所のようだ。


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 周知のように、1916年、第1次大戦のさ中、亡命中のレーニンはここで「帝国主義論」を書き上げ、1917年、2月革命の報を受けて、4月、「封印列車」でロシアに帰り、10月、ボリシェヴィキ革命を指導する。

 面白いのは、ここと「キャバレー・ヴォルテール」がほんのわずかな距離ということ、ちなみにレーニンの居所はシュピーゲルガス14、キャバレー・ヴォルテールはシュピーゲルガス1である。すごく狭い通りである。レーニンとダダイストたちは交流があっただろうか。あるいはチューリッヒの図書館の蔵書をむさぼり読んで「帝国主義論」を書いたレーニンも、ときにはこの「キャバレー」でひとときを過ごしただろうか。

 同じ頃、1915年から1920年まで、ジェイムス・ジョイスもチューリッヒで暮らしている。彼はここで「ユリシーズ」の執筆に専念したという。20年からパリへ行くジョイスだが、1940年、ナチ占領下のパリを脱出し、再びチューリッヒへ戻り、この地で最期を迎えている。お墓もチューリッヒにある。

 老舗の「ジェイムス・ジョイス・パブ」は旧市街とは川をはさんで反対側の繁華街、ブランド・ショップや金融系、銀行などの並ぶ綺麗な街の中にある。J.M.ウェストンの前だ。
 ここでは、ビールよりもなぜかウィスキーなど飲むのが良いようだ。素晴らしい室内の雰囲気だ。

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 それにしても、ヨーロッパの街にいると、歴史や偉大な人物を妙に身近に感じるものだ。レーニンがロシアに戻ったボリシェビキ革命の1917年から1956年のハンガリー革命まで40年たっていないのだ。革命の理想があっさりととんでもないものだったことがわかるまで、40年かからなかったというべきか、40年もかかったというべきか。今から40年前といえば日本では70年安保、その前年までにすでに反対闘争の敗北が明らかになってしまった年であり、ついこの間のことである。

 ジョイスもレーニンも、もちろんナジも、実はそんなに昔の人物ではないというわけだ。提起された課題もいまだに新しい。



 
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ブダペスト / イムレ・ナジ像

2010. . 24
 今年もまた、仕事で東欧を旅した。ブダペストの、美しい国会議事堂をみつめているイムレ・ナジの銅像には今も花束が絶えない。

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 1956年のハンガリー革命を象徴するイムレ・ナジ。だが彼の復権は1989年まで待たねばならなかった。1955年、スターリニストたちによって首相を退陣させられ、当時のハンガリー勤労者党を除名されたナジは、1956年、改革派のいわば「ガス抜き」のように首相に返り咲いた。そして一党独裁の解体をはじめ民主化政策を次々と実行に移してゆくが、当時のソ連は戦車2,500、装甲車1,000をもってこれを圧殺、ナジは捕らえられ、58年に処刑される。

 現在、ハンガリーではこの1956年の学生、労働者の決起を正式に「ハンガリー革命」と呼び、最初の学生デモの日であり、ソ連の軍事介入が開始された10月23日を祝日としている。

 前にも書いたと思うが、僕はおよそどんな理屈をこじつけられても、この56年ハンガリー革命や、68年プラハの春、あるいは89年の一連の東欧革命を否定し、旧ソ連邦・東欧の体制を擁護するあらゆる思想、イデオロギーを絶対に信じない。
 30年以上前、旧体制下のソ連・東欧を訪れ、市民たちとともに仕事をし、わずかながら会話もし交流してきたから、当時と現在との比較も出来るのだ。
 旧体制は、単に「民主的でなかった」だけではない。何と言っても歴然とした「階級」が存在し「階級支配」があったのだ。マルクスだの「社会主義」だのどんな看板をつけてみたところで、その理想とは正反対の体制であったのである。当時も、何を勘違いしたのか「労働者国家無条件擁護」とか、ソ連・東欧の体制を奇妙に理想化して語る人間、「一応は」社会主義を実現したなどとさかしらげに語る人間がいたが、全部、宗教と言ってもいいほどの幻想であり、虚偽のイデオロギーであった。

  56年ハンガリー革命は、日本の非共産党左翼・新左翼も生んだ。当時の日本共産党がソ連共産党に追随するようにこのハンガリー革命、学生・市民・労働者の決起を「反革命」と決め付けたのに対する、それは当然の動きであった。
 だが、その「反スターリン主義」を掲げた新左翼もまた、実際は内部にスターリニストを抱え、あるいは「反スタ」という名の一党独裁を路線化するにいたり、現在までに何の説得力も持たないものに変わり果ててしまった。

 ナジの像はじっと国会議事堂をみつめている。マルクスの理想も社会主義も困難な道である。


 
 
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