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選挙直前に

2009. . 28

 さて、選挙直前である。民主党圧勝の事前情報が伝えられているが、確かに、僕の周辺の声を聴いていてもそんな実感である。

 

 僕は何度もこのブログに書いたように、民主党は「史上最悪の政党」だと思っている。経世会という旧自民党の最悪の遺伝子を何の反省も無くそのまま受け継いでしまったからだ。また、その自民党最悪の部分と、社会党最悪の部分、さらに民社党というでたらめな政党までが野合して出来上がってしまったのが民主党だ。鳩山も「友愛」などと恥ずかしげも無く云い、無内容で、かつ改憲論者でどうしようもない男だ。小沢についてはもう言わずもがなである。

 しかし、しかしである。今回の巷の声を聴いていると、これもさんざんブログに書いてきたが、やはり麻生という男があまりにもひどすぎた。はっきりいって、「麻生でなければ・・・」なのだ。とにかく馬鹿で、しかも馬鹿の自覚が無く妙に自惚れていて、下品で、海外に出すには恥ずかしいし、一時も速く辞めて欲しい、と僕と同じ事を多くの人たちが思っているようだ。さらに、その麻生の「アドヴァイサー」として登場するのが、かつて最低の首相といわれた森であり、政権を投げ出した安倍だというのだから、多くの人々はあきれ果てているわけだ。

 小泉政権以降、安倍、福田、麻生と続いた、選挙という国民の負託を経ない政権のここ数年の間に、国民生活は疲弊しきってきた。年金問題や、政権投げ出しに見られたように、国民生活など何とも思っていない事があまりにも歴然としてしまった政党が、何を勘違いしたか自らと正反対の「責任力」などという造語を語りだすに及んで、今度こそ国民の多くはこの政党を見放したのだろう。

 

 だから、鳩山や民主党を別に支持しているわけでもない人々、今まで自民党を当然のように支持していた人々が今度は民主党に投票するという。これは選挙となれば、一方にプラス、一方にマイナスだから効果は大きいだろう。

 

 もし、自民党がその政権の「顔」だけでも変えていたら、あるいは民主党代表が小沢のままだったら、現在のような予測にはなっていなかっただろう。

 

 いずれにせよ、民主党への政権交代は、麻生政権が続くよりはたしかにましなのであろう。ただし彼らの出自からいって自民党政権より著しく世の中が良くなることなど絶対に期待は出来ないというわけだ。これは期待した国民によって監視され、一時も早く、次の政治勢力が形されなければならない。前にも書いたが、自民党も民主党もまったく同じように賞味期限を過ぎているのである。

 

 

 

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「1968」小熊英二

2009. . 24

 まあ分厚くて重い本であった。何とか全部読み終えた。全体、一言で言って、「質より量」という気がしないでもない。1968年の「叛乱」をこれだけのヴォリュームで書くのであれば、著者も語っているように当事者が多数存命中なのだから、せめて何人かは現在の当事者の発言を採って欲しかった。僕は実はかなり正確に引用されていると思うが、出てくる発言はすべて引用である。それもほとんどが「重引」であって、どうも、著者自身断わってはいるが、「高度成長期へのアレルギー」とか「現代的不幸(アイデンティティ・クライシス)への個々の抵抗」の側面からのものが強調されすぎて、軽いものになってしまった感がある。

 ここまでの本を書くのであれば、「激動の7ヶ月」の政治闘争であれ、学園闘争であれ、あるいはセクト、ノンセクトを問わず、実際に当時先頭に立って闘い、傷つき、現在は「平均的なサラリーマン」になる道すら失い、食うや食わずで生活し、沈黙を余儀なくされている人々の現在の生の声を聴きたかった。

 著者も言っている通りで、実際この当時の体験には年齢と属していた高校・大学などによってかなりの差があり、またもちろん、その体験の質も、たまたまちょっとばかり集会やデモに行っただけの人間と、全共闘なり自治会執行部なりで闘いを組織した側と、あるいはまたセクトに属して恒常的に公然・非公然の暴力的闘争に接していた人間とはまったく違うはずである。

 従って、この本は労作であるが、「当事者」からはたぶん不評を買うであろう。「実際はちがう」とそれぞれの体験に応じて感じるだろうからだ。それもよく闘ったものからは「そんな軽いものでは無かった」という声が聞こえてくるように思う。

 但し、このような「集積」すら今までまとまって出た事は無かった。当事者の世代は、沈黙しているか、それぞれの「体験」に固執して「自慢話」しているかで、全体を見通してみる試みはなされていない。

 だから僕は面白く読んだ。著者のピントはずれな部分も、あるいはなるほどと思える部分もひっくるめて興味深く読んだものである。

 僕は昨年このブログに日本の新左翼運動史のおさらいというのを書いている。けっこう話が重なってているくらいで、これは何回振り返ってもまだまだ興味が尽きないものである。

 

 さて、「序論」で著者は大体のことを語ってしまっている。いわば種明かしと予想される「批判」に対する反論である。

 この時代の叛乱を高度成長期の日本へのアレルギー乃至はその現代的不幸(アイデンティティ・クライシス)からくる自己実現(表現)運動として捉えようということだ。そうでないと、その政治的には「児戯に等しい」行動パターンや判断の説明がつかないのだ。

 また、こうした表現欲求に対してこの世代がそれにふさわしい「言葉」を持ちえず、1950年代、日本が発展途上国であった時代に形成されたセクトの、硬直したマルクス主義の言語にとらえられ、その指導下に入ったとき、日大闘争や東大闘争も当初の支持基盤を失い、孤立した闘争になったこと。皮肉なことに、それは、学園闘争の当初の獲得目標を見失い、あるいは政治的目的すらもなく、ただ「個人」が権力と闘う意思表示、「自分探し」になってゆくのと同時であったこと、などが語られてゆく。

 あるいはまた、1968年に20歳前後であったものを「全共闘世代」などとはまったく呼べ無い事。これは僕もその通りだと思うのだが、当時の大学進学率が16%くらいで、運動に参加したものが25%として全体で4%、とても世代を代表する人数などではない。それも実感として、参加したものが25%もいたはずがない。運動がさかんだった大学、本格的にストライキに入った大学で、「消極的支持層」を含めてそのくらいだったろう。

 僕は前にもこのブログに書いたが、1968年叛乱は少数派の運動であった。まちがっても世代を代表してはいない。さらに言うと、それが1960年安保闘争との大きな違いである。これは「戦後民主主義」の扱いにからむので大切なところだ。

 

 特に3つの章についてだけ簡単に触れて、僕の感想としたい。

 

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 セクト

 ここで著者は共産党から60年安保と1次ブント、革共同の結成や分裂、ブントの分派闘争などを詳しく述べている。そして「硬直化したマルクス主義」の言語から出られず、50年代型、いわば発展途上国における革命論からそれは出る事が無かったとしている。

 ここは全体の論旨にからむ重要なところである。だからどうしても最低限、当時の各派の機関誌・紙くらいはあたって欲しかったところだ。そうしたらもっと説得力があっただろう。

 いずれにせよ、60年安保闘争の昂揚は、昨年暮れの安保ブンド50周年集会で、長崎浩氏も語っていたが、何といっても「戦後民主主義」の運動として、「(戦犯)岸政権打倒」の運動として広汎な大衆的決起があって可能だったものである。長崎氏も言っていた。6月以降、スローガンは「民主か独裁か」だったと。ブント・全学連は、いわばその広汎な「戦後民主主義」を基盤とする運動を所与の前提として、その先頭で、あるいはその最左派、左翼反対派として闘ったのである。

 それに対して、68年の運動は、とくにその後半期は「戦後民主主義」批判の上に成り立っていた。これは東大闘争が当初支持基盤が広いうちは学生大会を開いてスト権をとったりしていたのが、後半、全共闘が少数になり、「ポツダム自治会」批判などを打ち出すようになり、また、新左翼各セクトがその「暴力革命論」により、「議会主義批判」を徹底してゆくにつれて、明確になってゆく。それこそ「いい悪いは別にして」学園闘争もその獲得目標を自らかなぐり捨て、反戦闘争も支持層を切り捨ててより孤立してゆくことになるのである。

 そして、どちらも、つまり60年安保は当時の社会党・共産党、そして全学連・ブントが、68年は新左翼各セクトが「指導」したのである。

 

 セクトの「指導」というのは運動の初期、あるいは運動が広汎に支持され昂揚するときには入る余地が無い。むしろ入ったら、広汎な支持も昂揚も無い。「既にある」運動にいわば「介入してくる」のだ。それが優れたものであれば大衆運動はまずそれとして「勝利」も出来るし、「革命的敗北」も出来る。要するに政治的に「勝利」できる。だが誤っていればそのどちらも出来ない。大衆運動としての獲得目標も失い、政治的にも敗北する。

 

 *僕はだから当事者の話が聞きたかった。この本では68年はもちろん「政治的に」完全な敗北として書かれている。僕もそう思う。だが、どうだろうか。例えばここで何度も引用されている発言がある。10.8羽田闘争にあって、「権力に対して全実存をさらそう」という、確か埼玉大の中核派学生の発言だったと思う。彼は別のところで、「闘いの政治的有効性と個人の実存的意義とは矛盾しない」と書いている。「安田講堂から逃げてしまった党派にどんな政治的有効性があるのか」と。彼は後のほうの発言の時は既に中核派を離れている。現在どうしているか知らない。僕は例えばこうした発言が68年叛乱を支えた典型的な、また最も良質な思想だと思う。現在の彼に「今、どう考えているか」ぜひ聴きたいと思う。「激動の7ヶ月」を先頭で闘い、三派全学連をも内ゲバで解体し、学園闘争にそれまでに無い意義、実存的意義を見いだしたはずの、そういう「彼ら」はだが今沈黙してしまっている。この本に登場するのも、時折、マスコミに出てくるのも、どちらかというと「軽い」全共闘ばかりだ。

                                  山本義隆・渡辺眸

 東大闘争

 著者は東大闘争の特質のひとつとして、それが当初研究者・院生を中心にして担われたことをあげている。そのかなりな部分が60年安保闘争の体験者だったことも。これは闘争初期、特に重要だった。大衆的支持を広げるにしても、当局と交渉するにしても、あるいは介入しようとするセクトと論争するにしても、彼らは極めて強力だっただろうからである。逆に言えばこのため、セクトは簡単に介入できず、闘争は大衆的に支持基盤を広げることが出来たのである。

 だが、その後、68年11月以降急速に、東大闘争は変質してゆく。民青との闘争のなかで、外部からの応援、またセクトの介入を積極的に頼まざるを得なくなってからである。ついには、7項目要求を当局が実質的に飲んでも、全共闘はそれを蹴るまでになってゆく。「飲み方」が悪い・・、あるいは、もはや「7項目の問題ではない」という、それこそ当人にしかわからないような論理になってゆくのだ。「指導」するセクトのほうは、学園闘争をそれとして捉えているわけではなく、活動家の供給基地として考えていただろうから、70年安保粉砕までの「徹底抗戦」を叫ぶだけで、全共闘メンバーの「実存的契機」を各セクトへのオルグに利用したのであろう。

 逆にこのときの各セクトから東大へ「介入した」同世代の活動家たちの声も聴きたいものだ。彼らとて、東大生のように運動を離れればエリートの道が待っているというわけでもなく、党派の指示のもとに東大に派遣され、民青と、あるいは他党派とのゲバルトに疲れ、最後には安田講堂で「玉砕」し、傷つき、逮捕され、それでも「政治的勝利」を信じていたと思う。

 本にあるとおり、東大闘争は実はかなり特殊な闘争だったのだが、そしてまた当初は広汎な支持基盤を持つ闘争だったにもかかわらず、最終局面ではすでに少数の「獲得目標のみえない」ある種の自己表現運動になっていった。そして、69年1月の安田講堂攻防戦以降、全国の大学にその表層面だけが波及する。すなわち、少数の全共闘が、自治会や学生大会の「正規の」議決を経ずに、大学のどこか象徴的な建物をバリケード封鎖して「玉砕」するという風にである。これは各セクトの活動家の草刈場としての機能はあったが、学園闘争としても政治闘争としてもかなり無意味であったようだ。

 ただし、僕自身もそうだったが、なんといっても「安田講堂攻防戦」にはそれだけのひきつけるパワーはあった。とにかく、権力に対して、それこそ全実存をさらして「徹底抗戦」すること自体が充分ヒロイックであり、立派な行動に思えた。もっともそう思った人間など物凄く少数だったようだ。

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 高校闘争

 さてここではもうたいして言うことはない。上記の「玉砕」のゆるい形、乃至はそのミニ版を高校でもただただやりたかった人間が現れたのだ。ただし、もう少し細かく言うと、その前から、高校では「反戦運動」への参加それ自体が結構不自由だったりしたから、当初は「高校生の政治活動の自由」などを獲得目標にあげた闘争まであったこと。それからやはり67年砂川あたりからの高校生の新左翼の闘争への参加から書いてゆかないと、何か突然高校学園闘争が巻き起こったようにみえるのでは事実関係に誤解が生じるだろう。

 そして、実は高校闘争というのは活動家の層が大学生よりずっと広い。進学校の闘争がよくクローズアップされ、この本にも出てくるが、工業高校や定時制高校にも戦いの輪は拡がっていた。また、教師たちも、大学教授よりもずっと、良くも悪くも「幅」がある。リベラリストもいれば極右もいる。戦争体験者、60年安保闘争体験者も当時たくさんいたのである。高校闘争に参加し、大学に行かず、党派の活動家になる道を選んだ高校生を僕は何人も知っている。

 実は僕は前にも書いたがここではまさに「当事者」である。そして僕の発言もまあまあ正確に引用されている。学園改革をもってバリケードを自主解除したことについて、「いい悪いは別にして・・・」政治的には「賢明な判断・・・」と書いてあるのには苦笑したが、これも今にして思えばである。当時はそれこそセクトから「改良主義」と批判されたものだ。まあここまでは本に書いてある。だが書いていない事は、内側でも相当批判があったことである。当然ながら「徹底抗戦」派はいたのだ。ただ、大学生の全共闘とちがってゆるいもので、彼らは孤立して最後まで闘う道など選ばなかった。「口だけ」で過激なことをいうだけなら簡単だ。そしてその種の人々は本当に主張するタイミングで孤立してまで闘うことなど出来ない。他の闘争でもそうだ。後になってから過激なことを言う人は必ずいる。高校生でも、いや高校生ならなおさら、その学園闘争に至るまでの、当時のベトナム反戦運動などの、いわば「外」での集会・デモへの参加経験、「中」ではクラス討論の積み重ねや、そのデモへのオルグといった経験が人によってあるいは学年によってまったく違うものだ。ぴょいと出の活動家が過激なことを言っても、本気かどうかすぐわかってしまう。現に、大量の逮捕者・処分者を出しても「徹底抗戦」した高校闘争も、本にあるとおりもちろんあった。

 

 僕が今、この本のまさにこの章を読んで、若干の気恥ずかしさと、当時は「青かったなあ」と思うのは、先程からの「戦後民主主義」の話とも通じるのだが、要するに、「運が良かった」のが半分、そして、知的でリベラルな教師集団の存在(彼らは当時、今の僕よりずっと若かったのだ)があって可能だったことを、僕、乃至は僕たちは、自分たちの運動の力であるかのように「錯覚」していたことである。

 戦争、そして戦後民主主義を身体で経験し、また砂川闘争、60年安保闘争、あるいは勤評闘争を闘った経験を持った教師集団がどのくらいいたか、あるいはどういう判断をしたか、によって各高校の闘争の終結もかなり変わっていたようである。

 この辺も今、話が聞きたいものだ。

 

 著者がいうとおり、日本の68年は、例えばフランスのそれに比べて、少数の「狭く、長い」ものに終わった。叛乱のモチベーションが似ていても、50年代という日本がまだ発展途上国であった頃に形成されたセクトの、硬直したマルクス主義言語を与えられることによって、あるいは「70年のパラダイム転換」を経ることによって。

 60年安保闘争が曲がりなりにも時の政権を倒したことと比べると、あるいは、パリの5月が学生の評議員会参加、つまりは経営参加まで獲得して矛を収めたことを考えると、それはあまりにも、「実存的」問いかけ?の闘いに偏り、政治的には何の遺産も残さなかったようだ。日本の労働運動、学生運動、乃至は市民運動の経験として考える時、それはあまりにも空しい。先般このブログに書いたが、フランスでは最近「5月の若者たちが帰ってきた」と呼ばれた新しい世代の、デモ、ストライキ、街頭闘争によってCPE法案を葬り去った。また今年6月、68年5月のリーダー、ダニエル・コーンベンディットは、自ら「欧州緑の党」を率いて「ヨーロッパ・エコロジー」により欧州議会で14議席を獲得し、社会党と並ぶ第3勢力とした。実に280万票余りを集めたという。日本の場合、この著書にあるように、街頭闘争や学園闘争は「やっても負けるだけ(とことん負けるまでやる)」あるいは「行き着く先は連合赤軍」でしか本当に無いのだろうか。少数派の自己満足だけで終わってしまって良いのだろうか。68年経験は日本でももう少し広いものを持っていると僕は思うのだが。

 

 この本は、当事者からは、あるいはアンチ新左翼の立場のそれこそ圧倒的多数の人々からはもっと不評を買うだろう事が予測できる。だが、誰もここまで書かなかったのも確かだ。何と言おうと労作である。充分読むに価するし、セクトと東大闘争、その関係、またその後の闘争への影響を論じた部分はむしろ当事者であれば書けなかった展開だろうと思う。

 

 またまた良い読書であった。この本の書評を含め、繰り返すが、当時「本当に闘って」現在沈黙している人々の話が聴きたい。マスコミに登場する「昔全共闘」などほとんど嘘っぱちであることは皆わかっているし、この本でも著者はさすがにそこだけはきっちり整理して見せた。

 

 

 

 

「太陽を曳く馬」高村薫

2009. . 14

 味わいつつ、ゆっくり読んで、高村薫「太陽を曳く馬」をついに読み終えた。

 何ともいえない充実感。またこのいまだ覚めやらない興奮は何だろう。「晴子情歌」「新リア王」に続いた高村薫の、これもまた現代文学の頂点ともいえる、完成度の高い作品であった。

 

 禅寺で「修行」していた僧侶末永が、夜、寺を抜け出して交通事故にあって死ぬ。末永がてんかんを持っており病身であって、それを承知で寺で預かっていたのだからと、その「管理責任」を問い、両親が訴える。刑事事件としてどうなるかと、調査がはじまる。ここで刑事・合田雄一郎が登場し、物語が始まる。

 合田はその禅寺「永劫寺」の僧侶たちに会って調べるうちに、末永がもともとオウム真理教の在家信者だったこと、またそれを知りながら寺に迎え入れた一人が、福澤彰閑(彰之)であったことを知る。この彰之の子、秋道が、同棲していた女を玄翁で殴り殺し、その嬰児も放置して死なせ、聴こえていたかすかなCDの音のせいで、隣家の大学生も同じ玄翁で殺すという事件があり、合田は福澤彰之とは何回か会っていたのだ。またそれ以前、福澤彰之の内縁の妻・杉田初江がひとり餓死したときも話を訊いていて、浅からぬ因縁であった。

 

 物語は2001年の合田の捜査を軸に進むが、2つのクライマックスというか山場がある。始めのそれは、この秋道の3年前の殺人事件の経緯と、それに関わる関係者の言葉の数々である。ひたすら絵を描いていた秋道はその当日も部屋の中を真っ赤に塗りつぶし、線を引いていた。「音が」絵を描くのを妨げるので音を止めた、というのが、公判まで含めて秋道本人が語った「殺人動機」のすべてである。ここでは、現代美術について、ポップアートについて、様々な観念的な言葉が飛び交う。だが結局秋道の真実に向き合う言葉は無い。秋道は死刑を言い渡され、2001年に執行される。その年、9.11テロにより崩壊するニューヨークのビルに合田の元妻が居合わせてやはり死んでいる。合田は義兄の電話によりその映像を観る。死刑台(絞首台)からの落下と崩壊するビルからの落下、合田の眼前の2つの死!

 もう一つの山場は、末永をめぐって、またオウム真理教をめぐって、これも3年前の永劫寺サンガ内部に生れた確執に、合田が迫るところである。ここでも、僧侶たちによって延々と言葉の山が築かれる。元オウム真理教信者であって、座禅のスタイルからして「異質」な末永を排除、乃至は無視しようとする僧侶たちと、むしろ積極的に向き合い、その教義も検討しようとする福澤たち。末永が寺を飛び出した時、果たしていつも締められている通用門は開いていたのか?誰かによって開けられたのか?正解は、末永を福澤とともに積極的に迎え入れた明円、永劫寺にその福澤を招いてまたとない仲となったこの明円が合鍵を末永に渡していたのだが、僧侶たちは、当初からこれら事件の全体を知っていて、合田に隠していたのだ。

 末永をめぐるこの僧侶たちの「論争」には後半のかなりの部分が費やされていて、著者の観念的な仏教への、あるいはその「言葉」への思い入れの深さがわかる。ここでは人間存在の、そしてその「観念」の必然性について、(これは実に僕なりの解釈だが)インド仏教と日本の仏教、乃至は「禅」との対比によって、とことん語られる。まさにクライマックスである。

 そして、事件の全貌を観念的にもつかんだところで、合田は、福澤彰之が死刑を待つ秋道に送った手紙をすべて読みはじめる。このいくつかの手紙が、小説の最後にもなり、福澤彰之の言葉による2つの事件(息子・秋道の殺人事件と末永の事故死)の総括にもなっている。ここではその末永が秋道の公判にも来ていたこと、秋道の絵画について、乃至は現代美術についてまで、彰之と会話していたことまでが語られているのだ。そして末永をめぐる果てしない僧侶たちとのやり取りの末に彼がつかんだ人間の認識の根拠、子・秋道の殺人の動機に迫ってゆく。

 

 「晴子情歌」で母・晴子からの膨大な量の手紙を受け取る福澤彰之、「新リア王」で不意に尋ねてきた父・福澤栄と自らの寺で長い対話をする福澤彰之、東大を卒業し、遠洋漁業の漁師になり、その後ずっと僧侶として人生を送った福澤彰之。前作のラストで父を亡くし、内縁の妻を餓死させ、さらにこの作品では、息子が2人を殺して死刑になり、一度入って運営に携わった巨大な禅寺も最後には解体し、また去って子を葬り、小さな庵に落ち着く彰之。彼の心に今映っているのは、子・秋道への最後の手紙に書く、ただ日本海の風が吹きすさぶ、かつて母・晴子と訪れ、初江を連れて行き、また秋道も連れて行った、青森、七里長濱の海岸であった。

 

 このくらい骨組みのがっちりした小説を読むのは本当に素晴らしいことだ。僕はこの高村薫という作家と同時代を生きていて本当によかったと思う。日本の現代史を貫通する、福澤一族を描いたこの3部作のおかげで、この数年間素晴らしく充実した読書の時間が得られた。もちろん、今回の「狂言回し」ともいうべき合田雄一郎が事件を追う「マークスの山」、彼が狂う「照柿」、そして翻弄される「レディ・ジョーカー」のほうの3部作も傑作であった。

 また、雑誌、新聞などで時折読む彼女の時評にも共感することが多い。何よりも彼女がしっかりした時代認識を持ち、権力を凝視し、「言葉」を大切にし、その力を信じているからだと思う。薄っぺらな言葉ばかりが飛び交い、この10年ほどはとてつもなく言葉を粗末にする総理大臣まで何人も抱えてしまった我が日本社会である。彼女のような本物の知性にちゃんと発言を続けて欲しい。もちろん、何といっても、またがっちりした長編小説を送り出して欲しい。

 

 

 

 

ルネ・ラリック

2009. . 12

                      ラリック

                     

 国立新美術館で、ラリックのコレクションを観てきた。言うまでもないが、ルネ・ラリックはアール・ヌーボー、アール・デコの2つの時代を駆け抜けた天才アーティストである。サブタイトルの「華やぎのジュエリーから煌きのガラスへ」そのままに、展示コレクションは、精緻な自然モチーフの、アールヌーボーのデザインジュエリー多数に始まり、パリ万博を飾った大きな噴水など装飾品から花器やテーブルウェアまでを含むガラスの時代まで、本当によく集められていた。ラリックその人のデザインの歴史にそった展示という編集がしっかりしていたので、実に収まりのよい展覧会であった。

 

 アールヌーボー・デザインの花、動物、女性像などをあしらった数々のジュエリーにまず圧倒される。これらはデザイナーとしてのラリックがサクセスしてゆく契機になったコレクションであって、発表当時のインパクトがよくわかる。とても精緻で美しい。

 だが、何といってもコレクションの白眉、ラリックをラリックたらしめたのは後半のガラス、クリスタルのコレクション、それもアール・デコの時代のそれである。

 当初の「シール・ペルデュ(ロスト・ワックス技法)」による一点ものの作品も素晴らしいが、ここまではあくまでもコレクターむけの作品である。むしろ、1925年のパリ万博を彩った巨大な噴水「フランスの泉」、そのひとつひとつの美しい「女神」たち、あるいは往時の道楽者たちの名車のラジエター・キャップとしてデザインされた粋な「カー・マスコット」の数々、オリエント急行の窓を飾った華麗なパネル、それらの多数(といっても時代的に限りはあるのだが)制作されたガラス製品にこそ、ラリックらしさがあるといってよいだろう。もちろんコレクションには、この世界でのラリックを一躍有名にした各種の香水壜や、ガラスを用いたジュエリー、花器、ボウル、ワイングラスにいたるテーブルウェアまで、いわば大きなものから小さなものまで、しっかり揃っている。

 そのどれをとっても、アールデコの新鮮な息吹と、一目見てラリックとわかる彼のセンスが感じられる美しい作品群である。

 これらの「作品」が「量産」され、当時成長しつつあった市民・ブルジョア層に、その生活の中に確実に溶け込んでいったことが歴史的にラリックをラリックたらしめたのだ。特権的な貴族やその周辺、乃至はコレクターだけの楽しみに終わらせること無く、多くの市民の生活にアーティストの「作品」を持ち込むことに彼は成功したのだ。

 

 僕の友人に無教養な人間がいて、ラリックを「それはバカラのなの?」と訊かれたことがある。何といっていいかわからなかった。確かに例えばラリックのワイングラスなど価格ではバカラに勝るとも劣らないが、これは別に上下の話ではないだろう。が、日本ではガラス、クリスタルのブランドとしてのバカラは確かに有名になった。

 後日、ラリックについていくつか著作もある、前のラリック美術館の学芸員、池田まゆみ先生が笑顔で語ってくれたものだ。

 「バカラがね・・・」と彼女は言った。「職人たちが作った芸術品だとしたら、ラリックは芸術家が作った日用品なの。」

 至言である。

 

 20世紀、21世紀と時代がめぐり、極東の小市民たる僕も、自室の棚にラリックのカーマスコットを飾り、ラリックのデカンターを愛で、いくつか愛用のラリックのグラスを取り出してワインを飲むという贅沢も許される。日常生活の中にアートがしっかり入り込んでいるのだ。

 これこそが、ラリックをラリックたらしめた彼の芸術であり遺産である。

 

 

 

谷中で

2009. . 03

 帰国して、最初の休日。谷中BOSSAにて、昼間のライブ。

 行川さをりさんのボサノヴァ・ヴォーカルと高田泰久さんのギター。谷中BOSSAはマイクを使わないので、自然な歌声と生のギターの音が心地よい。

 行川さをりさんの歌は軽やかだがすごく研究し、努力し、歌いこんでいるのがわかる。彼女もまたボサノヴァの魅力に取り付かれたのだろう。アンコールまでのびのびと歌いきった。ギターの高田氏はいうまでもない。彼の伴奏は他のヴォーカル、片山淑美さんのときもここで聴いているが、実に美しい。だいたい、歌手のどんなキー、どんなテンポにもあわせて、ボサノヴァの様々な名曲をあれだけ演奏するのだからすごい。

 

 高村薫の新刊「太陽を曳く馬」上巻を読み進む。「新潮」連載時のことは途中で読むのを止めた事もあり、忘れてしまっている。1998年の福沢秋道の殺人事件、その死刑執行、父の福沢彰之の禅寺から「脱出」した僧の交通事故、それを両親が刑事告発する事件などが2001年、この2つの事件について、合田雄一郎が思考をめぐらす。秋道が殺人事件の当時も、それ以前からも絵を描き続けていたことから、現代美術の彼方へ。あるいは、自己で死亡した青年が元オウム真理教信者であり、また福沢彰之の禅寺へ入っていたことから、その関係者、特に仏僧たちとの会話を通してその仏教思想の奥にまで考えをめぐらせて行く。また、彰之の思考、人生、彼の子・秋道への大量の手紙を検討しつつ、仏教思想の本質へ、さらにその認識論の彼方へ思考を深めてゆく。また合田はちょうどこの年、ニューヨークの同時多発テロで、元妻を失っているという設定である。展開するドラマの主人公は合田であるが、観念の体系、この小説で問われているものを言葉で執拗に問い詰めているのは福澤彰之である。彼が息子の殺人の動機を問うことの中に、その「言葉」の中に、作者の問いも込められていると思う。

 合田雄一郎は「新リア王」の最後のあたりで確か電話か何かで登場するが、主人公で出てくるのはもちろん「レディ・ジョーカー」以来である。そして「晴子情歌」・「新リア王」に続く福沢一族の、日本現代史の中を貫通する物語。何といっても高村オールスターキャストだ。面白くないはずがない。

 それにしても、ずっしり読み応えがあって、読んでいる時間そのものに充実感がある。彼女の小説はいつもそうだ。ゆっくり読んで、読み終えたらまたブログを書いてみよう。

 

 もうひとつ、小熊英二「1968」(上・下)を読んでいる。下巻のアタマが高校闘争なので先に読む。十代だったので当然だが、まだ青臭い僕自身の当時の発言なども割と正確に載っている。68年と一言で言っても当時の僕のような高校生から大学生シニア、大学の新入生などではかなり世代意識に差があるのだが、本の発言記録は全体にそこをおおらかに跨いでしまっている。本全体のモチーフとしては、68年叛乱を政治的にでなく、世代の表現、「戦後」を引きずったまま、高度成長と消費社会にスムースに適合できなかった「疎外感」の表現として捉えているようなので、なおのこと、ここは大雑把に過ぎると思える。というわけで、色々と考えるところもあるが、まあ大著である。こちらもじっくり読むことにしよう。

 

 

 

 

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