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江戸の履き倒れ

2009. . 30

 先日、ファッションネタで書いたら気分が軽くなり、何人か友人からも反応があった。ちょっと続けてみる。だいたいずっと外資系の会社に勤めてきたが、その間、それなりのブランド、エルメスとかカルティエとか、あるいは和光とかのお姉さまたちから、「Alexさんはずっと付属校からでしょう・・・」などとよく言われた。何かとんでもない誤解であって、「いえいえ下町の都立高から・・・」だし、私立大学に入ったときそれなりのカルチュアショックも受けたというと、「でも、ファッションが・・・」と来る。どうやらかなり分不相応なものを着ているようだ。特に靴にはお金をかけてきた。もっとも海外で買うので日本の売価の半額くらいで入手しているのだが。そんなわけで靴オタクの靴紹介。

 

 さて、デニムにはローファーだが、春・夏、ちょっとお洒落しようかというとき、何を履くか、実はとっておきのジョン・ロブと、なんとベルルッティがある。

 

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 右のカジュアルなジョン・ロブも10年選手。ヌバックでレザーソウルの珍しいものだがなかなか贅沢なものだ。アルニスの夏ジャケットなど羽織ったときはこれで。

 で、左のベルルッティは、まだベルルッティが日本に出店される前、パリ、マルブッフの店で入手したもの。当時店にいらしたマダム・オルガ・ベルルッティ本人のパティーヌによる、これも想い出の一品である。パティーヌが出来上がるまで通常2週間といわれたが、フライトの関係で10日ほどでやってもらった。さすがにこれは僕でもたまにしか履かない。もう2度と、マダム自身のパティーヌは無いだろうと思うからだ。この次はやはりアレッサンドロ・ノルウェジアンを、今度は秋冬用に濃い色のパティーヌで。

 

 主にスーツを着るときに履く愛用のJ.M.ウェストンも今回写真をとってみた。

 

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  ファンならみんな知っている#598、スプリット・トゥ、ダブルソール、クラシックなウェストンの定番だ。左がボルドー、右がブラウンのスコッチグレイン。写真より実物は明るい。このスコッチグレインはものすごく気に入っている。細かい話だが、パリ、リュ・ド・レンヌの店頭に飾ってあったスコッチグレインの靴は、アンティークのように、山側が明るく光り、谷側が暗く仕上げてあった。ああいう風に磨くにはどうしたらいいか訊いたのだが、10年磨けばそうなるという答えだった。10年たつがそのようにはならない。ただ、なんといってもウェストンは皮が良い。独自のタンナーを有しているという事だが、磨けば磨くほど艶と味が出てくるこの皮は、高いはずのウェストンの靴の価格をリーズナブルに思わせる。

 

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  これも左は定番のゴルフ、ウェストン・オリジナルのタイヤのようなラバーソールがついている。雨の日も含め、かなり乱暴に履いてもう10年以上になる。ゴルフはもともと磨きこんでもあまり光らないように加工されているようだ。マットな仕上げのダークブラウン。右は通称「7分仕立て」といわれるセミブローグ・ダービー。もともとオーダー用のモデルだったようで履いてみるとおさまりがすごく良い。つま先に釘がWの字の形に打ってある。こちらは素晴らしい光沢。グレーのパンツによく映える。

 これらのウェストンは本当に愛用していてしょっちゅう履いて10年以上たつ。が、まだまだ健在である。むしろますます味が出てきたところ。あとは還暦を過ぎたら、ウェストンの名作、クロコダイルか、リザードのローファーを入手して履こうと思う。

 

 さて、秋・冬用のダークブラウンのジョン・ロブ、チャーチ、クロケット・ジョーンズ等をしまいこんで、今一番活躍するのがこちら。

 

      IMG_0297_edited-2.jpg

 

 左のクロケット・ジョーンズのカントリーシューズはダイナイト・ソールがついていて雨の日用。どうも僕はこういうスコッチグレインの皮に眼がない。右は靴好きなら誰でも持っているだろうエドワード・グリーンのフルブローグ "Malvern" である。ラスト202の名作だ。チェスナット・アンティークの素晴らしい表情。これを磨き上げる時は本当に快感だ。これを僕はロンドン、バーリントン・アーケードの本店で選んだ。あの店のたたずまいも良かった。僕は男の靴の世界ベスト3は、ジョン・ロブ、JMウェストン、そしてこのエドワード・グリーンだと思う。3つに優劣はつけられない。好みの問題だろう。

 

 今回、コレクションの一部を写真に撮った。靴の好きな人には楽しんで見てもらえると思う。僕も、見ず知らずの他人のブログで、同じような靴のコレクションの写真を見て楽しんでいるから。また機会があれば、オールデンやチャーチも含めた別の愛用の靴の写真も撮ってみたい。革靴にはやはり何ともいえない魅力がある。江戸っ子の履き倒れ、靴オタクたる所以である。

      

 

     

 

       

 

     

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ゴールデンウィーク、デニムとローファー

2009. . 27

  さあて、ゴールデンウィークだ。僕は、仕事柄若いころはこの時期休めない事もあったものだが、このごろは努めて人並みに休むようにしている。

 今日は前から書きたかったけど他のことが気になりすぎてなかなか書けなかったファッションの話。軽くて愉快だ。

 何が書きたかったかというとデニムの話。この季節、女がデニムを穿いて街を闊歩するのを観るのは良いものだ。僕もオジサンだね。アーウィン・ショーの有名な短編に「夏服を着た女たち」というのがあるけれど、僕にとって、あの主人公が眼を奪われる「夏服」が春のデニムというわけだ。確かにデニムというのは真冬は寒々しいし、夏は暑苦しい。でもとにかく、女優だってジーンズが似合う女優は素敵なものだ。マリリン・モンローといえば古いが、やはり史上もっともブルージーンが似合った女優だろう。「荒馬と女」のときのリー・ストームライダーを羽織った着こなしも忘れられない。僕はジェーン・バーキンが好きだが、60年代から現在までずっと、彼女はいつでも粋にデニムを穿きこなしている。パリ、バスティーユのオペラ座で彼女を見かけた事がある。中休みの時間、皆ロビーに出てきてシャンパンなど飲むわけだが、当然皆ドレスアップしている。彼女の連れの男性もきちんとジャケットを着てタイを締めていた。だが彼女はデニムだった。他ならぬジェーン・バーキンその人だから、そんな場所ででも許される着こなしがあるのだと思った。おなじみの、MSFのステッカーを貼った、ずたずたになった「バーキン」を肩にさげていた。

 

 さて、女の話はまあいいとして自分の話。ゴールデンウィーク、デニムを穿いて、ボサノヴァなど聴いて、リラックスしたいものだ。僕は長くデニムといえばリバイス、それも501と決めていたものだが、昨今は良いものがたくさん出ているので色々と手に入れては楽しんでいる。もう501もMade in U.S.A.でなくなってしまって、かつてのような夢は無い。ここでアメリカ繊維産業の空洞化の話になるといつもの評論になってしまうのでここまで。今気に入っているのは、ヤコブ・コーエンのものだが、軽くてなかなか良い味である。僕たちの世代の男はいくつになってもデニムを穿くだろう。ただし、ここで若者と違うのはスニーカーを履いてしまうと少し情けなくなってしまうというところだ。ブーツも良いのだろうが日本の天気では蒸れる。僕は裾をほんの少しロールアップして、ローファーを履く、というのが若い頃から好きで、今でもこだわりがある。

 プロフィールに書いたように、僕は靴オタクなのでそのローファーにもさらにこだわりがある。スーツに合わせるレース付きの靴ほどの数はないがやはりそれなりの気は遣っている。A/Wはオールデンやウェストンも良いがS/Sは軽いこの2足でいこうか。ジョン・ロブとコール・ハーン、どちらも15年選手だ。

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    左の コンビのローファーは、コール・ハーンがまだナイキの傘下に入る前のクラシックな傑作だ。当時のことだから当然Made in U.S.A.だ。作りも良い。15年位前に一目見てコンビが粋で気に入って入手した。このデザインはすぐラルフ・ローレンがコピーして自分のコレクションで発表する。その頃、僕はローファーといえばアメリカ製と思っていた。20代になりたての頃だからかなり昔、35年以上前、僕が買った初めてのアメリカ製ローファーはスコッチグレインのBass-Weejunsだった。当時、国産「リーガル」のローファーが3000円台だった時、バス・ウィージャンは10,000円以上もした。(当時はBassも当然アメリカ製だった。)アルバイトした金で何とか手に入れたものだ。僕はその20代の頃、初めてパリに行くのだが、その時もリーのホワイトジーン”ウェスターナー”にそのバスのローファーを合わせて、ひとり、70年代パリの街を歩いた。

 このコンビのコール・ハーンはデニムに黒のポロシャツなど着た時に結構重宝してこの15年以上ずっと愛用している。

 右のジョン・ロブも思い出深い。これも古く、まだジョン・ロブの既製靴がエルメスのブティックで売られていた頃のものだ。ロゴも John Lobb Paris と金文字で入っていて、現在とは少し違う。僕は毎年のようにパリに行くが、この頃はその度にサントノレのエルメス本店を訪れ、ジョン・ロブを買うのが楽しみだった。勿論通常はローファーでなくキャップ・トーなどのスーツに合わせるレースのついた靴を買っていたのだが。愉快だった事がある。このローファーを買った時だったと思う。僕の顔を覚えていてくれたジョン・ロブのハンサムな店員が、僕がエルメスの表の入り口から入った瞬間に、「ムッシュー!」と叫んで奥から迎えに出て来てくれたことがあったのだ。そこから、あそこのエルメスへ行く人はご存知と思うが、左側のスカーフやアクセサリーなどの売り場、そこに群がっている日本の妙齢の女性たちの「アイツ、何者?」というような視線を一身に受けつつ、彼に導かれるまま、奥のジョン・ロブの並ぶ小部屋のソファにどっかりと腰をおろしたものだ。何しろ、ブーツを求めようとしたら「愛馬の毛色」を訊かれたというエピソードのある店である。それなりの品格がある。僕も初めての時は緊張した位だからこのときは照れたが嬉しかった。ゆっくり試し履きして買い求める。彼が靴べらを出してくれて足を入れる。「シュッ」という音がして足が入る。いつもいつも嬉しい瞬間だ。この淡いマホガニーのローファーはすごく柔らかい。ジョン・ロブならではの贅沢な皮である。求めてから15年以上たつのに初めの柔らかさのままだ。

 

 というわけで、こんな古くて懐かしい2足が今年もデニムとともに出番である。 ビリー・ワイルダーはローファーをコレクションしていたそうだが、もともとこの種の革靴には男を夢中にさせる何かがある。さらに、ローファーの場合、レースの靴と違い、どことなく自由なくだけた雰囲気がある。スーツに合わせられないところがかえって良いのだ。この2足もまだ当分長持ちしそうだから、まだまだ楽しみである。

 

 ゴールデンウィークにデニムとローファー、僕のひとりよがりの贅沢な休日である。

           

                  

 

 

 

 

 

 

いのちの「規制緩和」

2009. . 20

 ここ数日、新聞に出ていることが気になってならない。浅薄な一団が「臓器移植法」の「改正」を唱えて、国会に上程しようというのだ。特に焦点となっているのは15歳未満の小児の心臓移植である。これを「親の承諾」ですすめてしまおうというのだ。

 ずいぶんと身勝手な話ではないか。

 自分の子の命を助けたいと思う、それは自然なことだろう。僕も子を持つ親だから、また、かつてはその子も小さかったから、気持ちはわかる。だが、そこに「人の子の命を奪っても」とつけば誰でもそうだと言い切れるものではない。心臓移植というのは「生きている」心臓が、小児の心臓であればそれに見合う小さな心臓の提供が前提なのである。つまり、心臓が生きていて、脳が死んでいる「脳死」した子供の存在をその前提にしているわけだ。脳死したといっても、その子はまだ「成長」もするし、「生きている」子と同じ姿なのだ。また小さな子の場合そもそも「脳死」の判断自体がものすごく困難なはずだ。「とる」側の親がその子を愛するように、「とられる」側の親とてその子は愛しい。仮に親が割り切ったところで、本当に「心臓をとってしまって」完全に命を奪ってしまってよいのかどうか、誰が判断するのだ。

 

 僕は、突き詰めて考えれば、やはり「脳死」は人として死だと思う。ただし、本当に「脳死」であればである。そこはまだまだ未知の分野だと思う。移植という事を前提に脳死しているか否かの判定がなされるのだから、つまりより「新鮮」な臓器というニーズのもとに判定がなされるのなら、僕にはその判定は信じられない。

 また、今回の提案のような「親の承認」などで、移植をすすめられたら、子供はたまったものではない。現に臓器は売買されているのだ。虐待も多数ある。親が子供の心臓を金に変えようと思わないと言い切れるのか。もしこれを認めればそのために子を作って金にしようとする親だって現れるかもしれない。子供の身体を前に、脳死の判断はもちろん、その経緯も含めて医師はすべてを判断、裁量できるのか、できるはずは無い。これは極端な例ではない。

 

 小児の臓器の、市場規制緩和、こんなことを許してはいけない。

 

「しのびよる破局」と「朝日ジャーナル」

2009. . 20

 僕は、辺見庸氏を尊敬している。出版された著作のほとんどを読み、共感してきた。何よりも現代社会の、僕たちの「敵」に対する認識と怒りに、矛盾を突き出す批判精神に共感を覚えるのである。

 ところが、今回の本「しのびよる破局」については、もちろん共感する部分も多いのだが、違和感を感じる。難病と闘いつつしっかりした批判精神を研ぎ澄まし、怒りを表明されていることへの僕の共感と尊敬はかわらない。

 だが、だがである。例えば、「インターネットによって平板化され・・・」便利になりすぎた?ことへの怒りなどは、僕には思想の後退としか思えない。例えばその「便利さ」に対置して氏は特派員時代「現場近くの村に電話が2台しかない時代」のことを書いている。その電話の順番を待つ間、その「ゆったりした時間感覚」などがなつかしそうにある種の感慨を持って語られる。もしも、「電話などという便利なものが現場につながっていなかった時代」を語り、かつて伝書鳩をとばしたころのその鳩への愛惜を語るひとがいて、氏を批判したら何と言って答えるのだろう。

 

 インターネットに限らず、近代化や科学技術の発展そのものはリアリティ(現実)である。それは個々の人間の思ったとおりの方向に進むとは限らない。だが、リアリティはリアリティであってチョイス(選択)の余地はない。

 子供の頃僕は、21世紀には皆がアニメのように足か背中にジェットがついて飛んで移動できるようになると思っていた。実際はまったく別の方向が発達したわけだ。また、当時テレビというものが子供の思考力を奪う「悪い」ものだという議論が大人たちのあいだで交わされていた。もちろん、世界でテレビをやめようという選択肢などあるはずも無かった。

 

 辺見さん、どうしてしまったのですか?

 「現代のラダイト運動」など夢見ていてどうするのですか?

 リアリティとチョイスをごっちゃにすると、「敵」の思う壺だ。

 例えば、「経済のグローバル化」はリアリティである。否定できない現実だ。だが「新自由主義」や「市場原理主義」は実はチョイスの問題である。「敵」はここを一緒にして、「他に選択肢・生きる道は無い」とまでいう。

 

 「週刊朝日」の企画で「朝日ジャーナル」50周年記念増刊号が書店に並んだ。

 僕の大嫌いな見田宗介がはじめに文章を寄せていたのでちょっとがっかりしたが、全体はまあ面白かった。

 見田は、昔70年代に雑文を書いてそれなりに読まれたが、時代の「雰囲気」で読まれただけで薄っぺらで無内容であった。「気流のなる音」など今「見て」みるといい。まともな日本語にもなっていない。正気とは思えない。また、かれはとりあえずその幼稚な「コミューン論」により、時間的課題を一気に空間的に解決しようとするような、オウム真理教を含む新興宗教とか、一時期はやった「自己啓発セミナー」などにやけに入れ込んでひとを勧誘したりしていたのだ。罪深い、とんでもない男である。

 

 さて、斉藤貴男氏と高村薫女史の文章はそれぞれちがう切り口だったがさすがだった。実は同様の趣旨のことが書かれている。現在の「どうしようもない世界」つまり、格差、貧困、派遣切り、その他、は小泉・竹中らの構造改革にかなりの原因があり、それには実は「選択肢(チョイス)」があったはずだ、と、そうであれば、それを選択した私たち国民自身の責任であるということだ。もちろんリードした財界、政治家、マスコミも悪い、責任は重大である。しかし彼らはいわば確信犯だ。小泉も、また斉藤氏が引用している何人かの「規制改革」論者たちも嘘をついて騙していたわけではない。ここでは、まさに先の辺見庸氏が「蛇蝎の如く嫌っている」三浦朱門や、「遺伝子ですべて決まっている」というナチスばりの江崎玲於奈が取り上げられているが、本音は随時語られていた。にもかかわらず、国民は挙げて小泉(とその「改革」)を、大きな流れを支持したのだ。

 

 つまり、もう騙されてはいけないのだ。近代化も、科学の発展も、経済のグローバル化も、良い悪いを論ずる以前にそれはリアリティである。もう選択の余地は無い。しかし、選択肢のあることはまだまだあるのだ。それこそが「政治」であり「政策」なのだ。

 

 近代化やグローバル化「そのもの」、選択肢の無い現実にたじろいで、選択肢のある「敵」につけいらせてはいけない。

 

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