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日本人って・・・

2009. . 27

 海外での日本人の評価というか「受賞」が続いた。

 多くの人が興奮した。アカデミー賞受賞である。僕もニュースをみてすごいと思った。「外国語映画賞」ということは、映画好きにしてみると、すぐ思いつくだけでもあのフェリーニの「道」や、ルルーシュの「男と女」に連なってくるわけで、たいしたものである。そして、ニュース映像をみていて思ったのは、主演俳優の本木雅弘はいうまでもなく、滝田洋二郎監督も、広末涼子も、アニメーションの受賞者は僕の知らない人だったが、その31歳の加藤久仁生監督も、皆が皆、とにかくたたずまいが立派だったことだ。タキシード姿で、居並ぶ外国人たちにひけをとらず、とにかく「カッコ良かった」のである。

 

 話が前後するが、イェルサレム文学賞というのを受賞して、イスラエルに出かけた村上春樹も、僕は立派だったと思う。受賞を拒否すべきだとか、「行くな」という声がある中で、出かけていって、ペレス大統領やオルメルト首相らと肩を並べて、例の “Always on the side of the egg” のスピーチをやりきったのは、勇気の要ることだったと思う。ネットで全文をを読んだが、比喩的ではあるが、はっきりと直接自分のスタンスを示し、イスラエルの現在の軍事行動・ガザ攻撃を非難していたからだ。イスラエル国内では、イスラエルまで来て受賞しておきながらあれは何だという批判もあったという。当然だろう。そんな事はすでに、彼は考えに考えた上で行動したのだ。

 

 ちょうど、財務大臣・中川が醜態をさらし、各国のマスコミや要人のジョークのネタにされていた。だいたい、僕はずっと外資系の会社に勤めてきたのでかねがね思ってきたのだが、海外と、日本では「酒のうえでのこと」というものに対する考え方がまったくちがう。日本人はこれが甘いのだ。フィジカルな理由もあるだろうが、海外では気をつけねばならないのは常識以前だ。

 わが総理大臣麻生も内容のない短い訪米を終えてきた。「得意」な英語も、ニュースで聞いた部分は中学生のスピーチみたいな一般的な内容と語彙であった。なにより、たたずまいが情けなかった。オバマと並ぶと品性卑しく見える。何度もいうが恥ずかしいことこの上ない。

 2人の政治家はアカデミー賞を受賞した人たちや、村上春樹の、ほんのちょっとした部分だけでも見習って欲しい。

 

 僕は、ビジネスでもプライヴェートでも、海外に行ったり、そちらの人と話す機会が多い。だから、こうした、人によっては全然気にならないかもしれない事、TVに映るような日本人の海外での様子や評価にはちょっと神経質だ。たぶん、海外で生活している日本人はもっと気にしていると思う。

 

 気をつけるべき人は気をつけて欲しい。

 そして受賞した人たちには、心からお祝い!乾杯!

 

 

 

 

 

 

 

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「吉本隆明の時代」

2009. . 19

 ちょっと分厚い本で「吉本隆明の時代」を読んだ。著者のスガ秀美という人は吉本を批判しようとしている。

 内容には自分の知らなかった情報もけっこう多かったので、面白く読めたのだが、とにかく全体を貫く批判はいただけない。要するに、吉本が、非常に政治的に、乃至は戦略的に、論敵を葬り、知識人として地歩を固めてきたというストーリーになっているのだ。60年安保闘争後、「試行」の発刊にしても、その他の動きにしても、ブント書記長であった島成郎との会合とか、武井昭夫との会合とかが強調され、吉本が政治的行動に強い意思をもって動いていたと語られている。また、社学同再建派(独立ブント・SECT6)へのかかわり、あるいは後年の叛旗派との関係にしても、実際以上に強調されているようだ。すべて、吉本が戦略的に知識人としていわばサクセスするための戦略のように語られる。また、吉本が、知識人として、「浮遊した」生活の心配のないところに身をおき、なおそのことに「疚しさを感じないで済む」スタンスを意識的にとっているとして、いわば吉本の「両極」にいる知識人たちと比較して論じたりしている。スガの基調は、回りくどく云っていても「知識人はその存在に疚しさを感じるべきだ」と云っているようだ。倫理「感」の問題に帰結させてしまうのだ。

 したがって、結局最終章で、このスガは、68年の思想を、例の70年7.7の華青闘告発で収斂してしまう。だから津村喬がもっともすぐれた思想の体現者だなどと言い出してしまう。当然、彼を「差別を食い物にしている」とまで激しく罵った吉本は、68年の思想を理解できなかったとされてしまう。見当違いもはなはだしいが、これがこの本のあらすじだ。

 

 僕は、それこそ7.7以降、逆に新左翼運動が萎縮し、衰退していったと思っている。「差別告発」がその意図がどうあれ、運動の内部に「言葉狩り」にまでいたる奇妙な精神主義をもたらしたからだ。唐突なようだが、「内ゲバ」や個人テロ、リンチにいたる精神構造もそれはもたらした。運動体内部での倫理主義的摘発がさかんになり、はなはだしい場合は毛沢東主義と結びつき、「作風」などといわれだす始末であった。津村は毛沢東主義者であったし、文革を絶賛していた。連赤の悲劇も、毛沢東主義の「作風」が一因であったことは論を待たない。

 もちろん7.7の告発は重要な指摘であったろう。また差別の問題は現在に至るも避けて通ることの出来ない克服されねばならない問題である。だが、当時の告発は何故か運動体内部に極端に向けられた。「言葉狩り」もそうであった。ワルシャワ労働歌の訳詞に差別的言辞があるといって歌詞を変えて歌う部隊もあったのである。そして一般的にあらゆる「歌」が摘発されたわけではもちろんなかったのだ。

 68年の大きな思想的拡がりを「差別告発運動」の面からだけとらえるのはむしろ後退だ。

 

 当時、運動内部での差別告発運動に血道をあげた人々は、例えば現在日本の首相をやっている麻生太郎という差別の塊のような男をどう思っているのだろう。この男はかつて同じ自民党内で、総裁候補だった野中弘務のことを、「あんな部落出身者を総裁にはできないわなあ・・」と云ったとされる。野中は、会議の席で、「私は絶対に許さない」と云ったという。当然だと思う。これこそ差別だからだ。この麻生という男には決定的に何かが欠けている。こういうことこそ徹底的に糾弾すべきではないか。こんな男を日本の首相にしていることがまさに我々の恥だと思う。

 

 「吉本隆明の時代」を読むと、時代の思想に取り残されたとここで批判されている吉本の「勝利」がますます確信されてしまう。

春の朝

2009. . 17

  The year's at the spring,

 And day's at the morn;

 Morning's at seven;

 The hill-side's dew pearl'd;

 The lark's on the wing;

 The snail's on the thorn;

 God's in His heaven--

 All's right with the world !

 時は春、/日は朝(あした)、

 朝は七時、/片岡に露みちて、

 揚雲雀なのりいで、/蝸牛枝に這ひ、

 神、空にしろしめす。/なべて世は事もなし。

 

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  誰でも、中学生くらいのとき感動して暗誦しただろうと思う。ブラウニングの「春の朝」、上田敏の名訳である。僕もひとと変わらず、大人になったら、こんな静かな春の朝を迎え、一杯の紅茶を飲むという心豊かな生活をしたいと思っていたものだ。

 僕は52年2月生まれなので、57歳になった。ブログタイトルのAlexisは誕生日の守護聖人だ。今年は妙に暖かい2月で、早起きしていたら、何故かこんな詩が頭をよぎり、これを知った中学生くらいからの時代を思い出している。中途半端で嫌なことも多い時期だったが、後になってみれば良いこともけっこう思い出せるものだ。

 ボーイスカウトをやっていたので、キャンプやハイキング、野外活動には親しんでいた。最近まで登山したり、子供をキャンプに連れて行ったりしていたのが億劫でなかったのはそうした経験があったからだろう。63年11月、東京都の合同訓練大会の日、早朝、ケネディ暗殺のニュースが飛び込んだ。ケネディはスカウトだったから、僕と同じ世代のボーイスカウトは皆このときのことを良く覚えていると思う。翌年、東京オリンピックでは、開会式のリハーサルや、会期中の各地で、参加各国の国旗掲揚をやったものだ。あれも正式なプロトコールがあるわけで、自衛隊とボーイスカウトしか出来なかったのだ。僕たちスカウトはそのために、つまり各国国旗の上げ下ろしのためだけに、中学校の遅刻早退が文部省から許可されたものだ。オリンピックへの当時の国の入れ込みようがよくわかる。中学校時代というのは中途半端な年齢で、特に高校受験などは、出来の悪かった僕は良い思いはしていない。最終的には奇跡的に地域トップクラスの都立高校へ滑り込むことになるのだが、学校の教師からはろくなことを云われなかったものだ。僕は学校の勉強以外の読書や、音楽や、映画や、色々な遊びに夢中になっていたのだ。英語や国語、また歴史などは読書だけはしていたが当時の学校の成績や受験にまったく結びつかなかった。でも後悔はしなかった。

 高校生になって、新たな出会いや読書によって、冒頭の詩に象徴されるような、憧れていた19世紀英国中流家庭の市民生活が、当時の植民地や国内労働者階級の搾取を前提にしたものであることを知る。またボーイスカウトの淵源がアフリカに進出した英国帝国主義によって組織された前線の部隊であったことも違う角度で納得するようになる。ずっと世界観が拡がる。歴史観が出来てくる。もちろん日の丸・君が代の強制などにも反対するようになる。少しは成長したのだろうか。高校生運動への参加も含めて、高校生になってから急に明るく積極的になったようだ。もちろん大人の市民としての豊かな生活への憧れが変わったわけではない。60年代の日本人の平凡な生活目標に過ぎない。ただし、当時はベトナム反戦とか学園闘争とかのテーマの中で、そうした日常の「市民生活」にある種のやましさや疑問符が投げかけられる時代ではあった。日本政府はアメリカのベトナム介入に協力し、反戦運動をやる以上、その国内で生活している自分たちの存在を問い直そうという思いがあり、帝国主義を支えている教育体制までも問い直されねばならず、学園解体・自己否定まで語られた時代だったからだ。活き活きとした討論の輪がいたるところに生まれていた。自分の価値観を考え直さざるを得なかった。ただ、僕はどんなときも私生活をとても大切にしてきた。そして他人の私生活も尊重されるべきだと思った。その前提がないと運動も力を失うと考えていた。何でも心から飛び込めないと駄目なものだ。今でもそれは正しかったと思っている。

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 どうみても、今までも何となく書いてきたとおり、東京の普通の中学生であり、高校生だった。ちょっと偏っていたかもしれない。

 

 それからあっという間にここまできてしまった。またブログに色々と書くこともあるだろう。とりあえず自分が57になったらなにか思い出したことを書きたくなった。妙に悟ったり、老け込んだりしたくないのでこのくらい。

 昨夜、ヒラリーが来日した。60代にして、何と若々しく、颯爽として美しいこと。タラップを降りてくるとき、ゆったりした贅沢なオーバーコートがひるがえって総裏の美しいシルクプリントがみえた。お洒落である。50代くらいでぐずぐず云っている場合ではないようだ。

 来日したヒラリーが、麻生だの小沢だのと会うかと思うと、日本人として恥ずかしい限りだが、彼らもまた選ばれて出ているのだから、これも仕方ないことのか。そう思うのは自分の「老い」なのかわからない。「Alex君、インテリにとっては・・・」大学で言われたことがある。「民主主義というのは、耐えることなんだよ。」オールド・リベラリストだった教授の言葉である。彼は思えば現在の僕くらいの年齢か。彼はすでに「悟って」いたのだろうか。"Everybody doesn't like noisy politics, Alex," ぼくのかつての上司の言葉だ、"・・・Quiet life !"

 確かにそうだ。クリアーに云うものだと思った。でもそうありたくてもなかなかね。彼は典型的な英国人だったのだろう。

 

 歳をとっても、世の中のほうが騒々しい。冒頭の詩のように、「なべて世は事もなし」というわけにはいかないようだ。自分自身もまた、なかなか「耐える」事もできず、「悟る」気にもなれないから、まだまだ落ち着かない。せめて春の朝、静かに紅茶を飲み干すくらいの贅沢で心豊かな生活をしたいものである。誕生日に改めて思う。

 

 

 

恥を知れ

2009. . 04

 前回、オバマ大統領就任演説直後に雑感を書いた。その後、しばらくのうちにTV、新聞、雑誌などで様々なコメントがなされたが、驚いたのはあの就任演説が「退屈だった」、「期待はずれだった」「道徳の授業じゃないんだから・・・」という声が一部であったこと、またオバマ大統領が今後様々な困難にあたって「失敗が眼に見えている」とするものまであったことだ。何をいおうと勝手ではある。だが余計なお世話だと僕はいいたい。

 ひるがえってわが国の国会はどうだ。相変わらずさかしらげに「日米関係・・・」などと、何のヴィジョンも語れず(無いものは語れない)、滑稽にもオバマと「対等」であるかのように勘違いして、首相に居座っている男(麻生太郎)がいる。その男に向かって、高い税金を使って開催されている国会の場で、「漢字テスト」のパネルを取り出した野党議員(石井一)がいる。また、野党代表として当然質問に立つべきなのに出てこない党首(小沢一郎)がいる。代わりに出てきたオンナは、「仕立てのいい背広を着ている・・・」のだから見苦しくないよう早く辞めろなどと皮肉にもならないことを、やはりこれも国会の場でいいつのった。このオンナ(田中真紀子)は、それこそいつも「仕立ての良いスーツ」を着て高価なアクセサリーを身につけ、父に贈られた高価な時計をしている。それを地元で演説するときなどはわざと主婦らしい「高価でない」スウェット姿に着替える。いやらしいことこの上ない。まったく、ヒラリーとオバマの論戦や、大統領選にあたっての数々の論戦をみてきた直後だけに実に情けない。

 だが、何といおうとここにしか国会は、日本の議会は存在していない。言い換えれば、こんなにひどい男や女たちを支持し、以前小沢たちが「政治改革」と称してやった馬鹿騒ぎの遺産というべき小選挙区制のもとで、国会に送り込んでくる有権者たち・選挙民が沢山いるのだ。それが日本の現実であり、それこそ日本人の「民度」なのである。

 マスコミに登場するひとたちは、少なくともそうした日本の世論をリードしているのである。この足元の現実を思えばオバマの悪口など云えたものではないはずだ。まして国家のヴィジョンを示した演説にケチなどつけられるはずがない。ようく考えてものを云って欲しい。

 

 どいつもこいつも、「恥を知れ」である。

 

 

 

 

 

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