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大人の政治

2015. . 15
 フランスで州議会選挙(地方選挙)があった。第1回目投票では、FN(国民戦線)が大変な躍進を見せて、かなりの州で第1党となった。
 あのイスラム国による無差別テロがあった後だけに、移民排斥やEU離脱を訴える極右(最近は、党首マリーヌ・ル・ペンは、暴言を吐き続ける父親を除名してソフト路線をとっているようだ。)が、人心を集めるのもやむをえないのか、と思った。が、2回目の決選投票では、FN候補者は全敗した。FNの躍進に危機意識を持った人々の投票、そしてなにより、与党・社会党のFN包囲網戦術の効果である。FNの強い、プロヴァンス・コート・ダジュール( 創設者ジャン・マリー・ル・ペンの孫、マリオンのいる選挙区)や北部の諸州 などで、社会党は自らの候補者をおろし、サルコジの共和党を中心とする右派連合への投票を呼び掛けたのだ。社会党は当然窮地に立たされる。だが、FNの躍進を抑えるにはそこまでしなければならない、という、これが「大人の政治」である。

      マリオン・マレシャル・ル・ペン

 
  翻って日本では、イデオロギー的には「保守」よりFNにむしろ近い安倍政権が大手を振っている。まさに「立憲主義の破壊」がおこなわれているのに、野党はまったく無力である。
 僕は日本共産党を支持しないが、「立憲主義を守る」の一点で、民主党他の野党に呼び掛けられた「国民連合政府」構想には賛成だ。願わくば、共産党自体が、そこまでいうのなら、従来の党派性を完全に打ち破り、リーダーを外部の有識者に依頼してほしいものだ。誰かがブログで小林節氏の名をあげていたが、それもいいと思う。ある種の「反ファッショ統一戦線」であり、幼稚で、「立憲主義など聞いたことがない」とまでいう政権に、ここまで好き放題にされていてはかなわない。日本でも「大人の政治」をみせてほしい。

 それにしても、イスラム国の無差別テロには怒りがわく。フランスだけではなく、世界のあちこちで同様のことを行い、さらに今後も予告している。「あれは本当のイスラム教ではない。」などという人やイスラム教徒は、ぜひ「本当のイスラム教」とやらを彼らに教育してやってほしいものだ。イスラム国が、そんな教育や「話し合い」などに応じるはずがないことは、実はみなわかっている。わかっていて「話し合い」を強調するのは欺瞞にほかならない。だから、オランドは「戦争」を宣言したし、アメリカもロシアもこの一点では、さまざまな思惑をはらみながらも協力せざるを得ない。戦争は「政治の継続」だから、これも「大人の政治」である。ことわっておくが、日本は違う。なんと言おうと日本国憲法がある以上、「この国は2度と戦争をしないと誓った」のだから、テロと治安の問題を戦争に持ち込むことは許されない。これは日本の世界にしめすべき「大人の政治」である。ついでに、今問題になっている韓国や中国にたいしても、お互いに「大人の政治・外交」でのぞんでほしいものだ。かつては優秀な外交官や官僚、度量の広い政治家がいて、多少なりともできたことが今はできないでいる。

 今、世の中はクリスマスの雰囲気でいっぱいである。先日朝日新聞で「アメリカでは気楽にメリー・クリスマスと言えない。」と書かれていた。キリスト教以外の信仰に対する配慮だそうだ。寛容なことだ。これなど「大人の配慮」とでもいうべきか。それに対して、イスラム教の側に、そのような「異教徒に対する寛容」あるいは配慮はあるのか、彼らにも「大人の政治」をのぞむものである。以前書いたが、キリスト教でも、イスラム教でも、あるいはまたマルクス主義でも、「原理主義」と名のつくものにろくなものはない。それが「大人の政治」とは正反対のものである。

 2015年、年末、大変な世界になった。僕自身、若いころは、「大人の政治」などと聞いたら、それは腐敗した政治を意味し、嫌っていたものだ。だが、現在の情勢をみつつ、自身も60を超え、「大人の政治」を期待するようになった。間違っていないと思う。みんなで大人になろう。


写真は、マリオン・マレシャル-ル・ペン (ロイター)









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NO PASARAN !

2015. . 25
 安保法制は、2度の強行採決の末成立した。この間、書きたいことは山ほどあったのだが、ありすぎて、また怒りがわいて、考えもまとまらず、ブログをつけることが出来なかった。
 安倍政権はついに、近代的国家の根本というべき「立憲主義」の破壊を通じて、世界のどこにでも派兵できる軍隊を持つことになった。これは、誰しもいうように「暴挙」であり、幼稚な人物が政権の座にありさえすれば、好きなように憲法を解釈でき、軍隊も動かせるという、いやしくも平和主義、国民主権、基本的人権をうたったこの国の根本原理の破壊である。
 対する野党は、議員辞職をかけて闘い、解散・総選挙をワンイシューで闘うくらいの覚悟が必要だったが、(そうすれば法案は通らなかった。) そこまでの覚悟はなく、結局アリバイ的な「反対」に終わった。

 僕のもとに、( 高校生運動経験者だからだろう。) 知人が、国会前の連日続いた反対闘争に高校生が参加していること、また、高校生独自のデモが組織され、話題になったことを伝えてくれた方がいた。T-ns SOWL というその高校生グループは、どの政党とも無関係で、個人原理を徹底させ、自主的なデモを展開したのだった。
 大きな希望であった。かつて69年に、「高校生の政治活動禁止」の通達が文部省から出され、その通達は生き続け、各高校では、政治活動する生徒に対して退学を含む厳しい処分が科され、「政治無関心」が「あるべき高校生」とされていたのである。
 一方、例えばフランスでは、ブログに書いたものだが、CPE法案をつぶしたときも、つい最近も、高校生の政治デモは当然であり、それなりの社会的影響力を持っている。それが当然なのだ。
 とまれ、文科省は69年の「政治活動禁止」の通達を廃止するにいたった。18歳選挙権とのからみだろうが、「高校生は未熟」だとか「勉強が本分」などと言って、政治活動の自由を奪っていたのだから、いい加減なものだ。当時言われたものだ。高校生が勉強が本分なら、会社員は会社勤めが本分、自営業者は経営が本分だ。政治活動は政治家だけのものになる。こんなバカげた言い分はない。
 SEALDS もそうだが、高校生運動も、つまらぬ政党や、カルト的なセクトなどにとりこまれることなく、個人原理をつらぬき、法制が成立してしまったこのあとも、なお廃案に向けて、創意あふれる運動を展開して、社会的影響力を持てるまでに成長してほしい。情けない野党に対して、彼らは希望の光だ。
 
 まだ、闘いは終わらない。
 奴らを通すな!
 NO PASARAN !

女性作家の小説を読んで

2015. . 28
 女性作家の小説を続けて読んだ。桐野夏生「抱く女」、小池真理子「モンローが死んだ日」。前者は、設定された1972年秋、という、その時代の息遣いが感じられ、同世代の僕は、タイムスリップしたような興奮をおぼえ、楽しい読書だった。後者も作家は同世代だが、作品内容はずっと深く、充実した読書だった。
 桐野氏は、他の作品を読んだことがないが、本作については、素人がプロの作家に対して僭越ではあるが、とにかく「物語」になっていない。時代背景を感じられるということ以外、小説としては、小池真理子氏の足元にも及ばない。登場人物のキャラクター設定が粗雑で、ましてやヒロインが、次々に男に「抱かれて」しまうのだが、その必然性がまったくわからない。最終的にはバンドボーイの男と「本気の」恋におちるのだが、その必然性もわからない。男たちのキャラクター描写がみんな同じように浅いからだ。およそ、「物語」の基本になるべき、主人公のキャラクターにも魅力がない。「抱く女」どころか、「公衆便所」と揶揄されるまで、「抱かれる女」のままである。しかも、これも物語の基本だと思うが、主人公に「葛藤」がない。心理描写が雑なので、要は、どんな人間なのか、が最後までわからない。総じて、小説になっていない。これは「シノプシス」である。というのが、僕の感想だった。小池氏の小説は、従前通り、繊細な心理描写と、時代、年齢、などの設定により、主人公の人間像がきっちりと浮かび上がり、恋に落ちる必然性もよくわかるように描かれている。こちらはまぎれもなく「小説」であり、楽しませてくれる。
 以前、高村薫が、ジョン・ル・カレに似ている、影響を受けていると書いたが、最近の彼女は現代のドストエフスキーのようだ。だとしたら小池真理子は日本のサガンのようだ。

 さて、女性作家の小説を読んでいたら、また、昔の時代を振り返っていたら、僕も柄にもなく、女子のこと、恋愛経験のことなど、書いてみたくなった。ブログでは、一度も書いたことがないはずだが、考え直すこともなく、僕と言えども、女子のことは絶えず頭にあった。男の頭の中には絶えず女がいる、当然だ。

 ただし、後になってわかったことだが、僕は17、8のころ、本当に情熱的な恋をし、数年で別れたが、濃密な時間をすごした。だから、それ以後、人並みに女子とお付き合いはしたが、全部、おまけのようなものだったと思う。何を勘違いしたのか、結婚までして、案の定離婚してしまった。


                
 17,8の年齢で、それも同世代の恋、関係というのは、よほど女あしらいに長けたプレイボーイならともかく、基本的に男子は女子にかなわない。もちろん男子なりの見栄もプライドもあるから、リードしようとするが、そして男子の方がリードしているように見えたりするのだが、実際は女子の方がイニシアティブを握っている。男子は手のひらの上で踊っているようなものだ。知識をひけらかしたり、力を見せようとしたり、逆に優しさを出そうとしたり、いすれにしても、女子からはみんな透けて見えている。大体女は、特に美しい女子は、ほめられたら、何かを疑うか、それなりに慎重になるが、男はおだてられれば、単純に調子に乗る。女子の思い通りと言っていい。
 あとになってみれば、僕の場合もそんな幼い恋であった。それでも、彼女は一緒に銀座を歩けば、振り返られるほどの美形だったので、買い物などに歩くのは、男として何か誇らしい気分もあり、楽しいものだった。また、そこは10代後半のことゆえ、同じ本を読み、一緒に音楽を聴き、毎日のように会って会話するのは本当に楽しかった。同じものが好きになり、同じものが嫌いになった。言った通り、女子の方が早く「大人」になっているから、こちらは、何か知識を与えているつもりになっていても、実際は教わることの方が多かった。
 僕は今でも、高校生や、10代のカップルを見ると、本当にほほえましく優しい気持ちになる。おい頑張れよ、と応援したくなる。まさに二度と帰らぬ青春である。思いっきりエンジョイすればいいと思う。最終的に実らぬ恋に終わっても、そんなことはどうでもいい。その瞬間が充実していれば、必ず人生にかけがえのない花をそえる。で、その時は女子の方が先に大人になっているが、通常、男子はその後、学校でも、就職先でも、とにかく他人にもまれ、必ず成長する。多くの場合、先に大人になった女子を追い抜いて、否応なく大人の男になっていく。そのとき、幼い恋を省みれば、必ず人生の糧になっているのに気づく。

 もう今は、僕にとって、女性は「風景」の一部でしかない。だが、ショーの「夏服を着た女たち」のように、お洒落で美しい女たちを見るのは気分のいいものだ。女性作家の恋愛小説を読むのも、同じように楽しいものだ。硬い本の合間に、そんな読書の楽しみがあっていい。

 



姫岡玲冶逝く

2015. . 21
 また一人、安保ブント指導者が亡くなった。青木昌彦氏の話である。氏は、日本人初めてのノーベル経済学賞・最有力候補といわれていただけあって、亡くなったニュースは、各紙で大きく報じられていた。だが、彼が安保ブントの姫岡玲冶であることに触れていた新聞は少なかったようだ。僕が見た中では、少しあったが、ふれていても2行どまりだった。
 しかし、僕たちにとっては、何といっても「姫岡国独資」によって安保ブントの理論的支柱となった、島成郎とならぶブントの指導者としての、あの姫岡玲冶が亡くなったという受け止め方が大きい。

 現在、自民党の幹部たちが、強行採決した安保法制に対する反対運動を罵倒し、「昔はこんなものじゃなかった」などと訳知り顔で語る。嫌な時代になったものだ。だが、確かに、青木氏が理論的に支え、島氏によって指導されたブント・全学連による60年安保闘争は、「こんなものではない」大きな闘いであり、実際に内閣を打倒し、その後、自民党といえども気楽に「改憲」などといえなくなるだけの影響力を残したのも確かだ。全学連は何度かの国会突入を闘い、国会を連日取り囲むデモ隊も大規模で、一日50万人を超える動員であった。この経験は、60年代後半の闘争にあって神話のように語られたものである。これらを通底する、「日本の新左翼」の原点ともなった理論的背景を初めに提出したのが、この姫岡氏であった。

 彼は当時、何を打ち出したのか。大雑把にまとめると3つのことを言っている。ひとつは、当時のソ連邦が、その官僚支配によって、「労働者国家」などではくなっていたこと。これは「反スターリン主義」として、痩せても枯れても新左翼が新左翼と称する一番のアイデンティティとなる。例えば当時の日本共産党が、「アメリカの核実験は『悪い』核実験、ソ連の核実験は『良い』核実験」などとしたのに対し、はっきりとソ連の核実験にも反対するというスタンスをとったのだ。今なら当然のこんなことも当時は画期的であった。ふたつめは、日本の帝国主義が「国家独占資本主義」としてその地歩を固め、対米従属でなく、発展した資本主義としての日本帝国主義の自立を主張したことである。これも、安保闘争を「反米愛国」の闘いとした旧左翼に対して、正面から日帝打倒、岸内閣打倒をかかげた、画期的なものであった。「アメリカの戦争に巻き込まれる」どころではなく、日本が「改憲」を通じて「戦争を出来る国」になることを阻止する闘いとしたわけである。さて、三つ目だが、そうした国家独占資本主義に至った、発達した日本の資本主義、日本帝国主義を打倒する闘いは、改良主義や、当時流行した「構造改革」などではなく、直接政権を奪取する暴力革命でなければならない、と堂々と主張した。
 現在に至っては、3つ目の「暴力革命」は間違いだが、先の2つの主張は、実に正解であったことが言えるだろう。当時、他党派から、「宇野経済学と対馬ソ連論とハッタリとの混血」と揶揄された、まさに3つの主張だ。しかし当時、暴力革命は「ハッタリ」で語られたのではない。だからこそ、連日国会を取り巻くデモ隊と群衆におびえた岸は自衛隊の出動まで要請し、弟の佐藤とともに「革命の悪夢」に悩まされた。従って、繰り返すが、岸退陣後、自民党は「再軍備」とか「改憲」とか気楽に語れなくなったのである。

 周知のように、この60年安保闘争のあと、60年代後半に、日本の新左翼は「もうひとつの」もっと大きなピークを迎える。だが、残念ながら60年の闘いのような社会的影響力を持つことはなかった。その大きな理由は、当事者には失礼ながら、姫岡氏のような先見的な理論的支柱に欠け、また、一次ブントのようなスケールの大きな政治指導者を欠いたことであろうと僕は思っている。だから、また惜しい人が亡くなったという思いを一層強く持つわけだ。

 いずれにせよ、現在、信じられないほどの、幼稚な政権の暴力的ともいえる運営によって、安保法制が、そして解釈改憲が進行している中にあって、民主党をはじめとする国会内野党が、これまた信じられないくらい、これを本気で「廃案」にしようとする動きを示さない。(本来なら、あるいは本気なら、あそこまでやられたら、反対派全員議員辞職するくらいの覚悟で闘うべき責任があると思うが、自党の拡大や自己保身ばかり図り、アリバイ的な動きばかり目につく。) 自民党の中では、「安倍は酷いが、野党のおかげで助かっている。」と語られているそうだ。姜尚中氏は、この国会を「消化試合」と呼んだ。さもありなんである。
 
 反原発デモも含め、国会前には今も若者から高齢者まで、多くの市民が繰り出している。僕も数回だが出かけて行った。そのエネルギーは強い。確かに「昔とは違う」が、何も敗北した昔のスタイルを踏襲する必要などない。新しい社会運動は確実に芽生えている。政権も、野党議員も、社会運動を舐めない方が良い。闘いはまだまだこれからだ。



 

 

r > g , その後

2015. . 06
 トマ・ピケティの日本での人気はたいへんなものだった。著書「21世紀の資本」は、6,000円近いぶ厚い本であるのに飛ぶように売れて版を重ね、書店ではどこも前面に大きく平積みにされていた。シンポジウムや東大での講義は申し込みが殺到し、抽選に漏れる人が数多く、クレームも続出した。TVでは、パリでの講義が連続して放映され、好評で再放送までされた。
 評論家や経済学者はもちろんのこと、政治家が利用しようとさえした。人気に便乗しようとしたのだろう。もちろん「批判」もあった。だが、大概は「資産課税など無理だ」とか、政策提案に対する不利益からくるものか、単なるケチつけに終わっていた。それはそうだ。あれだけのデータと取り組んで例証しているのだから、「何が書いていないか」をあげつらったり、「立場の違い」を言ってみたりするのは、ほとんど自分の方が馬鹿にされるのがオチということになる。

 ひどい「批判」のひとつは、これが(本が売れたのが、)一過性の「ブーム」乃至は、「ファッション」であって、昔、左翼かぶれの青年が読みもしない「資本論」を「持って」いたのと同じだ などと言う者までがあった。可哀そうな人だと僕は思った。そういうことを言う人はおそらく読書の習慣自体がないのだ。マルクス・エンゲルスの「資本論」は19世紀の古典であり、述語もそれなりに難解である。一定のマルクス理解が前提である。それに対して「21世紀の資本」は、300年におよぶデータで例証する、今、現在の著作である。著者は来日し、図表や、脚注をインターネットで見ることまでできる。文章も、(翻訳も、鼻につくくらい)平易だ。別に「ファッション」として「持つ」必要などなく、文字通り、ファッションとしてでも、例えば村上春樹を読むように読むことも可能なのだ。普通の高校生くらいの読解力があれば充分読めるはずだ。もっとも、高校生であれば、r > g の現実に対する感覚、富の格差、そこからくる「つらさ」や、実際の経済活動に対する感覚が働く大人と違うので、読書のモチベーションは多少落ちるかもしれない。だが、多少なりとも、社会に対する問題意識や、本を読み通していく集中力や習慣があればもちろん読めない本ではない。

 
 僕が気が付いたのは、本来、ピケティのテーマや提案に敏感でなければいけないはずの野党政治家や左翼的評論家、経済学者などよりも、好き嫌いは別として、(僕はTVに映るだけで腹が立つくらい嫌いだが)、例えば竹中平蔵とか、高橋洋一とか、日頃「新自由主義者」云々とレッテル貼りされている人々のほうが、正確にピケティを読んで、理解しているということである。考えてみれば当たり前の話なのかもしれない。r > g は、例えば投資家にとっては至極当然な話で、「何をいまさら」と言うくらいの話だろう。だからこそ自分たちは「カネでカネを儲ける」のを身過ぎ世過ぎにしているのだと。そして竹中のようなその周りに巣食うものたちもそれは「常識」なのだろうから。「21世紀の資本」は、政策提案はともかく、彼らにとって実にわかりやすい本だったに相違ない。そのあたり、「格差」問題一般で、政治的にその人気を利用しようとした民主党の人間などは、その発言や取り上げ方を聞いていると、まず何より「本当に読んだのか?」という疑問がわいてくるくらいであった。また、ピケティが「もっともやってはいけない」政策としている緊縮財政や、消費税増税にふれるのを避け、一般的な「格差」問題など語ろうとしても、話が浅はかになるだけなのである。これは、メディアに登場する彼らの言説を聴いていて気恥ずかしくなるくらいであった。むしろ、竹中の言う通り、日本には、ピケティのいう「資産課税」にあたる高い相続税がある、とか、固定資産税がある とかいう議論のほうが、日本での政策提案として具体性を持って聞こえてくるくらいであった。

 つい先日、「格差」問題についての討論ということで、TVで竹中平蔵と「民主党ブレーン」と紹介された山口二郎が向かい合っていた。竹中が数字やデータをもっともらしく出して語るのに対して、山口は感情的にしか発言しない。経済の話、「格差」の話をしなければいけないのに「印象」の世界である。
 で、聞き捨てならない発言は山口の方だった。20世紀には、経済成長があり、同時に「分配」がしっかり機能していた。例えば「春闘」をはじめとする組織労働者らと経営者側の分配によって社会の公平性が担保されていたというのである。21世紀になると、そうした分配が機能しなくなり「格差」が拡大した。従って改めて「分配」を、というわけだ。
 バカもいい加減にしてほしい。
 僕は、若いころ、(70年代半ばだ。) 仲間たちとともに、当時「臨時工」と呼ばれた、非正規労働者の権利闘争の応援で、さる大企業の大工場へ応援に行ったことがある。ビラまきをしている僕たちに、暴力的に襲いかかってきたのは、警察でも、経営者側・職制でもなく、「満額回答」のゼッケンをつけ、「労働組合」のヘルメットをかぶった組織労働者の集団だった。
 彼らこそが、現在の民主党の母体を形成している。つまり、当時は、一方で「弱者救済」を言葉として語り、「強者」であることを任じる自分たちは「満額回答」という「分配」を得て、弱者を切り捨て、現在もまた「非正規労働者」を調整に利用しつつ、「正規」の自分たちの既得権を守るという構造なのだ。「非正規労働者」を言葉として利用するだけで、実際には、自分たちの既得権を守り抜くために調整機能を働かせる、というわけだ。山口の言う20世紀の「分配」とはこうしたものである。21世紀の現在も「非正規労働者」の問題として一貫して続く彼らの既得権防衛なのである。

 「格差」、「非正規労働」、そして「貧困」、これらの言葉だけをもてあそんで、既得権を守り、非正規労働者を切り捨てることによって自らだけが「分配」に預かろうとする、こんな卑しい根性の政治路線を断じて許してはならない。これだから民主党は、消費税増税、集団的自衛権行使容認、辺野古基地移転容認、改憲、そして原発再稼働に至るまで自民党の補完勢力としてのスタンスしかとることが出来ないのだ。それは、本当に「働く階級」に敵対する政治集団である。

 「ファッション」でもかまわないから、流行のピケティくらい本気で読め! 人間らしく過去をみつめ、「反省」し、考え直せ。















 
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